【アナザーストーリーズ】ちあきなおみ~喝采と沈黙の間で~

NHK―BSで「アナザーストーリーズ ちあきなおみ~喝采と沈黙の間で~」を観ました。

ちあきなおみの代表曲と言えば「喝采」だが、このドキュメンタリーでは新境地を図った「夜へ急ぐ人」、それに活動休止の前のミュージカルへの挑戦にもスポットを当てて、3つの視点から彼女の魅力を描いていたのが良かった。

「喝采」は1972年9月にリリースされたが、そのときの担当ディレクターである東元晃は、68年にある噂を耳にしたという。あの美空ひばりに匹敵する歌手がデビューする。それが、ちあきなおみだった。4歳で米軍キャンプで歌い、5歳で日劇のステージに立ち、13歳で橋幸夫やこまどり姉妹の前座を勤めた。

69年、デビュー曲「雨に濡れた慕情」は17万枚のヒット。だが、彼女のキャッチフレーズは“魅惑のハスキーボイン”だった。「四つのお願い」が38万枚、X+Y=LOVEは22万枚を売り上げ、人気歌手の仲間入りをする。だが、その後は下降の一途を辿った。「別れたあとで」14.2万、「無駄な抵抗やめましょう」6.4万、「しび逢う恋」3.1万、「今日で終って」1万、「恋した女」0.2万…。

「ヒットを飛ばさなければ」と追い詰められたちあきサイドが白羽の矢を立てたのが、東元ディレクターだった。「アイドル路線はやめよう。歌唱力で勝負しよう」と考え、作詞を吉田旺に依頼した。吉田は「歌い手自身を主人公にしよう」。デビューするために故郷を離れ、別れた恋人が亡くなるというドラマティックなストーリー。

だが、作曲家の中村泰士が猛反発した。届いた報せは黒いふちどりがありました。縁起が悪いというのだ。ヒットメーカーだった中村を吉田は何回も説得し、ようやく完成した。すると今度はちあきが「歌いたくない」と言い出す。巡業中に知人の訃報が届いた実体験と重なるというのだ。それでも、なんとかちあきを説得して、レコーディングに漕ぎつける。

ちあきはレコーディングブースをカーテンで覆い、靴を脱いで靴下になり、たった一人の空間を作って、スタッフには姿が見えない状態で収録に臨んだ。東元は「半端な気持ちではないんだ」と感じたという。

この曲は当初、「幕があく」というタイトルだった。だが、東元が「静かな中に強いものを表現する、秘めた響きを出すことを得意とするちあきに相応しいタイトルを」と考え、「喝采」に変更したのだという。1972年9月リリース。そして、大晦日の日本レコード大賞では本命だった小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」を破って、見事受賞。発売から僅か3カ月という史上最短の受賞だった。そして、80万枚を売り上げ、彼女の代表曲となった。

ちあきはその後、「劇場」「夜間飛行」とドラマチック歌謡三部作でヒットを飛ばし、その存在感を確立した。だが、本当に歌いたい歌は何か。迷いながら活動を続けた。演歌も歌ったが、特定のジャンルにとどまるのをよしとしなかった。そんなとき、マネージャーが音響スタッフの長谷川融に「友川カズキって知っているか」と訊ねた。

ちあきが深夜番組「11PM」で友川が「生きてるって言ってみろ」という歌を歌っているのを観て感動し、会いたがっているのだという。ちあきは直接、友川に会うとその場で「新曲を作ってほしい」と言った。友川は「三流のシンガーソングライターである自分になぜ依頼するのか」と戸惑った。「生の歌を聴かせてください」と、ちあきのコンサートに行くと、ジャニス・ジョプリンの「MoveOver」を涙を流して歌うちあきを聴いて、その迫力にもらい泣きしたという。「本気なんだ」。

誰もが抱える心の闇を表現できるのは、ちあきの狂気しかない。友川は抑圧される負の感情を放出するかのような曲を一気に書き上げた。それが「夜へ急ぐ人」だ。「普段はボーカルだけ別収録するちあきが、バンドと一緒に歌うことにこだわり、納得するまで何度も繰り返し歌ったという。

第28回紅白歌合戦では、NHKが「喝采」を歌ってほしいとリクエストするも、ちあきは「夜へ急ぐ人」でないと紅白に出ないと言った。果たして、その歌唱は全国民を圧倒した。もえる程恋、脆い恋、あたしの心の深い闇の中へ、おいで、おいで、おいでをする人、あんた誰。

ちあきは1978年に結婚し、歌手活動を休止したが、「やっぱり歌いたい」と主婦業専念を撤回した。音楽の世界を広げたい。1年に1枚リリースするアルバムは、シャンソン、ジャズ、ポルトガルのファド…、海外の音楽に意欲的にチャレンジした。納得するまで、出来る限りの表現を試みるちあきの意欲は編曲を担当したピアニストの倉田信雄に伝わった。

1989年、ちあきはミュージカル「LADY DAY」に挑戦。人種差別や薬物依存と戦った歌手、ビリー・ホリデーの生涯を描いた作品である。ひとり芝居。舞台の横にピアノを弾く倉田がいるだけだった。翻訳は吉田旺が担当した。「ビリー・ホリデーを彼女に憑依させよう」と詞を書いたという。

南部のポプラの枝にゃ、奇妙な黒い実がうれる、その実を風が揺するたび、したたり落ちる血の涙。歌うことの本質を見抜き、他人にわかってほしいと歌に全てを捧げた姿は観る者を圧倒した。

好評で再演され、ロングランが期待された矢先、ちあきは歌手活動を休止してしまう。プロデューサーだった最愛の夫を亡くした1992年のことだ。その後、倉田はもう一度歌わないかと手紙を書いたが返事はなかった。「ちあきなおみという作品、プロジェクト自体が終わったのでしょうね」。

あれから30年以上。もう二度とちあきは歌手として復帰することはないだろう。だが、歌に魂を吹き込む、半ば狂気に近い執念は今後も伝説として語り継がれるに違いないと思った。