渥美清に会いたい

NHK―BSで「渥美清に会いたい 山田洋次×黒柳徹子」を観ました。
渥美さんのことを「兄ちゃん」と慕っていた徹子さんの最初の出会いは「お父さんの季節」というドラマだったという。渥美さんが料理屋の使用人で、徹子さんが料理屋の娘、やがて二人は結ばれて結婚するという筋立てで、その当時から「二人はあやしい」と噂になったという。
渥美さんは浅草フランス座出身の芸人、徹子さんは山手の音楽家のお嬢様でNHK専属女優第1号。最初は“犬猿の仲”だったそうだ。徹子さんは浅草になんか行ったらさらわれてしまうと思ったとか。「なんだ、このアマ」「アマって、おっしゃると?」「あーいやだ、いやだ。この手の女は嫌だね」。最悪の第一印象だったという。
1961年~66年に放送された「夢であいましょう」。ここで二人は共演する。「君の名は」のパロディ、西南戦争中の西郷隆盛に電話で話をするコント…とても息が合っている。坂本九、フランキー堺、谷幹一、前田武彦、関敬六、永六輔、中村八大…。錚々たるメンバーによるドタバタナンセンスコメディを一緒に創っていく中で、二人の間の距離が縮まった。渥美さんは「何か買ってやるよ」と徹子さんを可愛がり、徹子さんも「本を読んだ方が良い」と「星の王子さま」をプレゼントするなど、友情が深まった。
幼い頃の渥美さんは病気がちで、体の弱い子どもだった。身の回りのことを観察するのが好きで、それを母親に面白おかしく聞かせることを楽しみにしていたという。徹子さんは「あかぎれみたいな目」で世の中をよく観察し、それが人の喜びや悲しみを表現できる人になったのでしょうとおっしゃったのが印象的だ。
1969年にスタートした「男はつらいよ」。そこから26年間にわたって渥美さんは車寅次郎を演じることになる。渥美さんを主演にするドラマを山田監督が書くことになり、渥美さんと会ったときに話してくれた少年時代に憧れたテキ屋の話を夢中で聞いたという。啖呵売。幼い頃に身に付けた威勢の良い口上を一つのヒントとして、山田監督は寅さん像を作ったのだろう。
1985年のインタビューで山田監督は「類まれな俳優とめぐりあい、彼の中から寅さんを見つけ出した」と語り、渥美さんも「兄思いの妹さくらと組み合わせた監督の台本に興奮し、嫉妬すら感じた」と語っている。
山田監督のこだわりのワンカットのエピソードが大変興味深かった。渥美さんは一つ余分に芝居をしてしまうところがあった。さくらが博と結婚する決心をして、それを寅さんに告げるシーン。さくらの台詞の後、キョトンとして頷く「5秒の間」がほしいと思った。すべて撮り終えたオールラッシュを見た後、山田監督はそこのシーンを「もう一回撮らせてくれ。いいと言うまで顔を動かさないでくれ」と頼んだという。果たして、それは素晴らしいシーンとなった。
続編からは渥美さんが山田監督の意図を理解して、思うような芝居をしてくれた。言うことがない、わかってくれている。そういう見抜く賢さが渥美さんにはあったという。
渥美さんは新作が封切られると、必ず徹子さんを誘って映画館に行ったそうだ。観客が笑っているところを渥美さんは確かめたかったのだろうという。徹子さんが毎回思わず笑ってしまうのは、寅さんが柴又に帰ってくるところだ。皆が「寅は今頃、どうしているのかね」と喋っていると、店の前を扮装した寅さんが通り過ぎる。何度かやっているうちに、皆が気づいて「入ってこいよ」と言う。山田監督いわく、あれは落語「笠碁」なんですと。なるほど!なかなか入っていけない、受け入れる方も声を掛けられない。あの呼吸。おばちゃんの三崎千恵子さんはどうしても笑ってしまってNGを何回も出したそうだ。
寅さんがタコ社長の工場に行って、「労働者諸君!きょうも残業か。ご苦労さん」と言う台詞。森繫久彌さんが「あれは渥美さんだから皆が許してくれる台詞。私がやったら白けてしまう。とてもできません」と言ったそうだ。寅さんに癒される。みじめな人生だけど、頑張ろう。勇気をくれる。それはギャグで笑わせるのではなく、生きる喜びを伝える笑いであり、山田監督は「そういう渥美清という才能に恵まれたことは幸運でした」。
渥美さんはプライベートを明かさない俳優だった。それは頑なだった。寅さんとして生きる覚悟をして、私生活は一切ファンに見せない。寅さんに没入することで、寅さんになりきった。
だからテレビ番組にもほとんど出なかったが、一度だけ徹子さんの頼みで「徹子の部屋」に出たことがある。1979年、渥美さんが51歳のとき。「私の話なんて面白くない。ほかに喋るのが上手な人がたくさんいるでしょう」と断られてきたが、一度だけ実現したのだった。倍賞千恵子さんとお二人の映像が流れたが、それは、それは面白いお話だった。
渥美さんはがんの宣告を受けてからは、他の仕事を一切断り、寅さん一本に絞った。1995年の「寅次郎 紅の花」の撮影風景の映像。ワンカット、ワンカット、命をかけて寅さんを貫いているのが伝わってくる。
徹子さんが撮影現場に陣中見舞いに行った。山田監督が言う。渥美さんが久しぶりに「笑った」。映画のシーンとして笑うことはあっても、それ以外では笑顔を見せなかったので、スタッフは恐る恐る対応したという。だが、徹子さんが現れると笑った。嬉しかった。有難かった。そして、翌年に亡くなった。1996年8月4日。享年六十八。
渥美さんのインタビューがとても素晴らしい。
歳なんか、寧ろ判らない方がいい。どんなところで生まれて、何をしてきて、どういう風になったか、判らない方がいい。だけど現実にその人が舞台に出たり、現実にその人が出てくると、魅入られてしまう。そういうものに俺たちは引き込まれる。スーパーマンが撮影現場で子どもたちに「飛べ、飛べ、早く飛べ」と言ったというけど、スーパーマンは2本の足で地面に立っていちゃいけないんだよね。だから寅さんも黙っていちゃいけないんでしょう。24時間、手を振っていなきゃ。
渥美清さん、いや車寅次郎が亡くなって、来年で30年になる。こういう職人肌の俳優はもう二度と現れないのかもしれない。