新宿末廣亭七月下席 神田伯山「乳房榎」

新宿末廣亭七月下席四日目夜の部に行きました。今席は三遊亭遊雀師匠と神田伯山先生が交替で主任を勤めるネタ出し興行。きょうは伯山先生が主任で「乳房榎」だった。
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伯山先生の「乳房榎」は50分を超える長講、十二社の滝で真与太郎が磯貝浪江を斬って仇討を遂げるところまで、心理描写、情景描写など実に丁寧に描き込み、圧巻の高座であった。
本所柳島の絵師、菱川重信に磯貝浪江が弟子入りしたのは、梅若の縁日に来ていた重信の女房おきせに一目惚れして、自分の女にしたいと考えた。この一心のためにどんな卑怯な手も使うという悪党ぶりがすごい。
重信が南蔵院の本堂の天井に龍の絵を描いてほしいという依頼を受け、下男の正助を連れて泊まり込みで仕事に掛かる。この留守をチャンスと捉えた浪江は、夜中におきせと真与太郎が寝る部屋に忍び、真与太郎に乳をやってはだけている胸に見惚れる様子が生々しい。
そして、目覚めたおきせに「大きな声を出さないでほしい。一世一代の願いを叶えてほしい」と言って、三か月前の縁日以降「この人と夫婦になりたい」と思いが募ったことを告白する。そして、「たった一度でいいから、契りを結んでほしい」と頭を下げる。
当然、おきせは拒む。すると、浪江は「ならば死ぬ。生きていても仕方ない」と肚にもないことを言うが、おきせは平然としている。今度は「大変な嫌われようだ。では、あなたを殺す」と脅すと、おきせは「操を立てて死ぬならしょうがない。さあ、お斬りください」と毅然としている。ならばと、浪江は最後の手段に出る。「生涯後悔する大事なものを奪う。この可愛い赤子、この命をもらう。つまらぬ意地を張って、この小刀で赤子の首を刺せば、どんな苦しみを味わうでしょう」。
実に卑怯である。そして、再度迫る。「たった一度でいい。外に露見することはない。このことは墓場まで持って行く。応じなければ、赤子を殺すだけ。二つに一つの返事が、そなたを決めるのだ」。おきせは断腸の思いで浪江を受け入れることにした。
行燈の灯を消して、真っ暗の中、浪江はおきせに馬乗りとなって抱いた。その音は外の雨にかき消された。「たった一度の約束」だったはずが、浪江は骨の髄まで悪党で、次の日、また次の日と求められ、おきせは体を許した。人間というのは不思議な生き物である。そうやって体を重ねるうちに、おきせの方から求めるようになる。少しばかり、浪江を可愛く思えてくるというのだから。
こうなると、浪江にとって邪魔になるのは重信である。南蔵院を訪ね、下男の正助を連れ出して、花屋という料理屋でもてなす。「故郷の親父から勘当が許され、帰参が叶うことになった」と嘘をつき、正助と義兄弟になってくれと頼む。「釣り合いがとれない」と一度は断った正助だが、熱心な浪江にほだされ契りの盃を交わす。
こうなると、浪江の手の内だ。義兄弟は肚にあることは残らず話す。困っていることがあったら、命懸けで助ける。そう前置きして、浪江はおきせと密通していることを打ち明ける。今では相思相愛で、おきせが「重信を殺して」夫婦になりたいと言っているという。だから、正助に重信殺しの手伝いをしてほしいという理屈だ。浪江は正助の首に刀を当て、「お前が死にたいか、死にたくないか、言え。手引きをするのか、しないのか」と卑怯な手で迫る。正助は「生きたいよ。大恩ある先生を殺しても、自分が助かりたい」と承知してしまう。
重信を落合の螢狩りに誘い、田島橋の松の木の枝に目印の手拭いを掛けておくから、そこまで誘い出してくれれば、後は浪江が斬るという。「逃げることはできないぞ。浪江の眼がついている」と脅す浪江は悪党だ。
重信は正助に誘われて、落合へ。大粒の螢を見て、「見事だ。とても絵には描けない」と喜んだ。そして、田島橋。目印の松の木まで来ると、正助はわざと転んで提灯の火を消す。ここぞとばかりに、隠れていた浪江が重信の背後から斬りかかり、重信は絶命した。重信が天高く挙げた右の手を浪江は左足で踏み、「まだつまらぬ未練があるのか」と、喉元を突いた。辺りを飛んでいた螢が一斉に舞い上がり、それは重信の魂が乗り移ったようだ。
正助が南蔵院に走り、「先生が殺された」と寺に伝えると、「先生は帰ってきている。本堂で絵を描いている」。確かに本堂に灯が点いている。正助はゆっくりと唐紙を開けると、重信が中腰で龍を描いている。そして、見事に完成させ、落款を押した。「正助~!何を覗く」。だが、重信はこの世にはなく、完成した絵だけが残った。
浪江はおきせと夫婦になった。そして、おきせは浪江の子を宿した。邪魔になるのは真与太郎だ。今度は正助に真与太郎を殺してこいと命じる。十二社の滝に放り込めばいいという。正助は笑っている真与太郎を抱いて、滝の上に行き、「おらは弱い人間だ。許してくれ。浪江は鬼だ。だが、自分の命が大切なんだ。許してくれよ、真与太郎」と言って、滝底に落とそうとしたとき。「正助~!」と声がして、重信の亡霊が現れた。「正助、仇を討ってくれ。浪江を討ってくれ」。正助は真与太郎を抱いて逃げた。「この子を守る」という一心で。
浪江は正助が裏切ったなと思う。おきせの乳房が腫れた。松月院の榎の汁を塗ると治ると聞いて、塗るが治りが悪い。おきせの乳房の膿を出そうとして、浪江が小刀を使うと、誤って心臓を貫いてしまい、おきせは絶命した。「誰の仕業だ!」と叫ぶと、そこに重信の亡霊が現れた。
5年後。真与太郎は六歳になっていた。松月院の榎の傍で走りながら遊んでいる。それを見守る正助。そこに浪江がやって来た。「ここにおったか!正助!」。一刀を抜くが、そこに重信の亡霊が現れ、身動きが取れなくなる。正助は真与太郎に先祖伝来の刀を渡す。真与太郎は「トトさまの仇!」と言って、目の前の浪江を斬った。これで仇討本懐を遂げたのだ。
重信は浪江の計略にはまり殺されたが、その亡霊が真与太郎を助け、裏切ったおきせを殺し、最後には浪江を討つことができた。「乳房榎」を単なる怪談ではなく、仇討の噺として完結させるところに、伯山先生の美学を見た思いだ。