国立演芸場寄席 神田松鯉「浅妻船」「出世の高松」

紀尾井ホールの国立演芸場寄席三日目に行きました。

「越の海勇蔵」神田若之丞/「井伊直人」神田松麻呂/「辰巳の辻占」春風亭柳雀/奇術 瞳ナナ/「小政の生い立ち」神田伯山/中入り/「しばられ地蔵」神田阿久鯉/「かぼちゃや」三遊亭遊馬/幇間芸 松廼家八好/「浅妻船」神田松鯉

松鯉先生の「浅妻船」。たっぷりと時間を使って、芳醇な味わいのある高座を聴かせてくれた。「鼻の上下とへその下」の三つに日に千両の金が落ちた、すなわち鼻の上の目で楽しむ芝居、鼻の下の口で味わう魚河岸、へその下の娯楽の吉原。歌川豊國はそれを成田屋十八番「暫」、初鰹、花魁道中を絵にして表したという。その吉原に紀伊國屋文左衛門は文人墨客を引き連れて遊びに行った。絵師の多賀朝湖、俳諧の宝井其角、書家の佐々木文三。佐々木文三は通称「さぶんざん」と縮めて呼ばれたと言って、「俳優の木村拓哉さんをキムタクと呼ぶのと同じですな」とおっしゃったのが可笑しかった。榎本健一がエノケン、喜劇王として並んだ伴淳三郎、通称バンジュンはシリアスな演技もできる良い役者だった、水上勉「飢餓海峡」の刑事役は素晴らしかったと振り返ったのが松鯉先生らしいマクラで良かった。

「屏風の蘇生」部分もしっかりと読んだ。茶屋の和泉屋半四郎が紀伊國屋を通して金屏風に佐々木先生に一筆書いていただきたいと依頼をする、屏風には既に朝湖が極彩色の「春山夜桜」を描いている。文三が「明日、芝の自宅へ持って来てくれ」と言うのを、和泉屋が「今、ここで書いて貰えないか。朝湖先生“すら”こちらに来て描いてくださった」と言うと、文三は機嫌を損ねる。「朝湖すら」の「すら」が気に食わない。文三は「一泡吹かせてやろう」と、屏風に筆を走らせた。「此処小便無用」。失礼な!と憤る和泉屋を宥めるように、其角が仲に入って、これに「花の山」と附け、見事な句にしたという…。

そして、この宴席で女物の扇子を拾った朝湖がそこに描かれた絵を大層気に入り持ち帰った。湖に一隻の舟が浮かんでいて、白拍子の女性と貴人が乗っている絵だ。朝湖は一晩のうちに、この絵を基に立派な絵を完成させた。翌日に訪ねて来た其角がこの絵を褒め、絵草紙にして売り出したらどうかと提案、「浅妻船」と名付けて版元に持って行くと、絵草紙は飛ぶように売れ、増版を重ねた。

だが、この絵を「柳沢吉保が妻さめを将軍綱吉に差し出した」というゴシップに読み解かれ、金と女を使って出世しているという柳沢を風刺したものと捉えられ、作者である朝湖は三宅島に遠島になってしまう。流人船に乗る朝湖を送りに来た其角は「お前の年老いたおっかさんの面倒は俺が見るから心配するな」と約束。朝湖は自分が元気だという便りは三宅島で作るムロアジの干物のエラに松葉を挟むと伝えた。

ある日、其角が棒手振りから求めたムロアジの干物30枚のうち、一枚のエラに松葉が挟まっていた。其角は朝湖の母にこれを見せ、喜びを分かち合う。シマムロに茶を申す日に寒さかな。朝湖が三宅島に流刑されて十三年目の正月、朝湖は江戸へ戻る初夢を見る。そして実際、それは大赦によって現実となった。江戸にもどると、母は亡くなっていたが、朝湖は英一蝶と名を改め、売れっ子の絵師として大成した。松鯉先生の丹念な語り口に酔いしれた高座だった。

紀尾井ホールの国立演芸場寄席四日目に行きました。

「海賊退治」神田若之丞/「お歌合せ」神田鯉花/「皿屋敷」春風亭柳雀/太神楽 鏡味味千代/「小田原遺恨相撲」神田伯山/中入り/「天野屋利兵衛 雪江茶入れ」神田阿久鯉/「酢豆腐」三遊亭遊馬/幇間芸 松廼家八好/「出世の高松」神田松鯉

松鯉先生の「出世の高松」。徳川家康の十一男、水戸中納言頼房は下女のおしまに手を付け、おしまは懐妊をした。その際に頼房は確かに自分の子であると認知した書付と証拠の品として肥前友成という名刀、香木の蘭奢待をおしまに渡す。身重のおしまは実家に帰るが両親が相次いで亡くなり、大坂に暮らす父の弟、宗右衛門夫婦のところに身を寄せた。おしまは男の子を出産するが、産後の肥立ちが悪く、命を落としてしまった。

宗右衛門夫婦は貧乏ながらも、この男の子を寅松と名付け、棒手振りをしながら自分の息子のように育てた。寅松はすくすくと成長したが、九歳のときにある出来事が起きた。梅雨が続き、商売が立ちいかずに食べるものに困った宗右衛門夫婦は何とか寅松だけでも食わせてやりたいと思うがない袖は振れぬ。そのとき、女房が思い出したのが、おしまが持って来て天井裏に置いていた油紙の包みだ。厳重に包まれた紙を解くと、中から書付と短刀と香盒が出てきた。香盒に入っていたお香を炊くと良い香りが漂う。

これに気づいたのは同じ長屋の住人の吉六だ。元々日本橋の道具屋の息子だったが、道楽が過ぎて勘当となり、大坂に来ていた。この香りは「蘭奢待だ」と、慌てて宗右衛門宅に行く。「並大抵のお香じゃない」と飛び込むと、宗右衛門は短刀を見せる。鱗丸の肥前友成という名刀で、徳川様の家宝だという。さらに書付を読むと…「おい、宗右衛門さん!寅松の父親は水戸中納言頼房公だよ!」。

宗右衛門、吉六、それに寅松は江戸へ向かい、小石川の水戸家の屋敷を訪ねる。頼房は「確かに私の直筆」と認め、寅松周辺を克明に探索した結果、寅松は「御落胤である」ということが判った。頼房の御簾中、すなわち正妻も「幸せなこと」と認める。だが、寅松の弟にあたる人物が頼房の跡取りであることが正式に決定していた後であり、水戸家後継者は覆ることはなかった。この弟が後の水戸光圀だ。その代わり、寅松は水戸頼重となり、高松12万石の大名となった。

光圀は大層頼重に気兼ねし、実子を頼重の養子に出し、頼重の実子を養子として迎えたという。つまり、養子の交換をしたという。格調高い名人芸の高座であった。