みんなあなたが好きだった プレーバック 長嶋茂雄の世紀

NHK―BSで「みんなあなたが好きだった プレーバック 長嶋茂雄の世紀」を観ました。
長嶋茂雄さんが6月3日に亡くなった。享年八十九。ミスターという愛称で親しまれた長嶋さんは、日本のプロ野球の最大の功労者であることは誰もが認めるだろう。長嶋さんが現役を引退したとき、僕は小学校4年生だった。学校から帰って、テレビで引退試合を観て、あの「我が巨人軍は永久に不滅です」という名言を聞いたことはよく覚えている。この番組は去年5月に放送されたものだが、今回、追悼の意味をこめて録画を改めて観た。
昭和32年の秋、立教大学は東京六大学野球で優勝した。大学4年生の長嶋は慶応との試合で8号ホームランを打ち、当時の新記録を達成した。大学野球と言うと、派手なプレーは注意されたものだが、長嶋のグラウンドを一周する躍動感ある姿は観客を魅了した。天性の「ファンを喜ばす」ものを持っていたのだろう。元日本テレビアナウンサーの徳光和夫は高校2年のときにこのプレーを観て憧れ、「この人の後輩になりたい」と立教大学に入学したという。
その年に長嶋は巨人軍に入団。開幕戦こそ、国鉄スワローズの金田正一に四打席連続三振を喫するが、ホームラン29本、打点92で二冠に輝く。もちろん、新人王だ。実はホームランを打ちながら、一塁ベースを踏み忘れ、幻になったというエピソードも長嶋らしい。
昭和34年には後楽園球場の阪神戦が天覧試合となり、王と長嶋が揃ってホームランを打ち、初のアベックホームランとなった。さらに同点で迎えた9回裏にはサヨナラホームランを打って、勝利。そのスター性は観衆を惹きつけた。スポーツライターの小林信也氏は「この頃から、長嶋は“みんなの長嶋”になった」と言う。当時の少年は銭湯の下足番の3番の取り合いをしたという。
昭和43年9月18日の阪神戦は王にとって忘れられない試合だ。バッキーの投げたボールが危険球となり、両軍入り乱れての乱闘。ピッチャーが権藤に交代したが、王は後頭部に死球を受けて、退場。この後にバッターボックスに立ったのが長嶋で、何とスリーランホームランを打つのだ。
長嶋は17年間の選手生活で、オールスターのファン投票で17年連続で1位を獲得した。常にスターであり続けた。そこには長嶋のプレーに対する確固たる信念があった。
ぼくね、いかにヘルメットをかっこよく飛ばすか、鏡の前で練習したんです。三振はバッターにとっていちばんダメなみにくいシーンですよ。でも三振しても何か光るものをお客さんに与えにゃならんと思って。グラウンドに出ている二時間半なり三時間はお金をとって見せる自己表現ですよ。
小林信也は語る。グラウンドから幸せと笑顔にメッセージを贈った。エネルギーの発信です。ガッカリだったり、笑顔だったり、感動だったり。自分の一挙一動が何かを与える。そういう責任感をもった天性の表現なんです。
そして、昭和47年10月14日。後楽園球場での中日とのダブルヘッダー。優勝は中日に決まっていたが、観客の関心は「長嶋の引退試合」ということだ。実況を担当した日本テレビの赤木孝男氏は「淋しさ。どよめき。わめき声。怒号。泣き声。球場は騒々しかった」と振り返る。長嶋は通算444号のホームランを打ち、王もホームランを打って、106回目のアベックホームランとなった。
第1試合が終わると、長嶋は突然ベンチを出て外野に向かい、ファンに別れの挨拶をはじめる。球場からは止められていたが、長嶋が自らの決断でおこなったことだった。テレビカメラはその動きに気づき、映像を撮る。長嶋を報道陣が囲み、スタンドのファンたちは「どけ!俺たちの長嶋だ!」と叫んだと徳光和夫は振り返る。
第2試合の巨人のピッチャーは横山忠夫だった。長嶋と同じ立教出身。「ファンは引退セレモニーを待っている。四球を出したり、バカスカ打たれたりして時間が延びたらすまないという気持ちで投げた」という。2017年に立教大学は東京六大学で優勝し、全日本大学野球選手権に出場し、見事に優勝した。長嶋がいた1958年以来、実に59年ぶりの快挙だった。このとき、脳梗塞で不自由な体になっていた長嶋は神宮球場に出向き、観戦している。OB会長だった横山が球場にエレベーターがないために、貴賓室まで手を取って階段を昇ってもらったという。そして、優勝を果たすと長嶋は校歌を一緒に歌った。
長嶋が巨人軍の監督に就任した昭和50年は最下位。翌年と翌々年はリーグ優勝を果たすが、その後3年は優勝を逃す。そして、昭和55年10月21日、監督辞任。日本一にはなれなかった。辞任が急遽だったため、王が現役引退を決意して記者会見用に予約していた場所を長嶋が使うことになったという。
平成4年、12年ぶりに長嶋は巨人軍の監督に復帰する。その年のドラフト会議で松井秀喜を抽選で引き当てる。これも長嶋の強運なのか。背番号55の松井は巨人軍の四番打者に定着し、活躍。二度の日本一に導いた。これも長嶋のマンツーマンの指導の賜物だという。遠征先のホテルでは、「バットを2本持って来い」と言われ、長嶋が指定するコースで素振りをおこなった。
平成13年、監督を辞任して巨人軍の終身名誉監督となった。その年から松井は大リーグのニューヨークヤンキースに移籍。ワールドシリーズのMVPに輝く実績を残した。松井は巨人軍に入団したとき、「サードをやらせてほしい」と長嶋に言うと、「お前はサードじゃない。お前をジョー・ディマジオにしたい」と言われたという。ニューヨークヤンキースのヒーローだったディマジオを長嶋は敬愛しているのを知っていた松井は「わかりました」と承諾したという。
ジョー・ディマジオはこんな言葉を残している。自分のプレーを初めて目にする子どもが球場のどこかに必ずいる。その子のためにベストを尽くさなければならない。これはとりもなおさず、長嶋茂雄の野球哲学に通じるのではないか。
長嶋は常々、野球の伝道師になると言っていた。その思いを松井は引き継ぎたいという。長嶋さんの思っていること、考えていること、野球への情熱。これを理解しているのは、これだけ歳が離れているのに自分だと自負している、と。その思いを次の世代に繋ぐのは私の使命だと語る松井は素晴らしい。
この番組を観て、改めて長嶋茂雄という野球人の遺した足跡の大きさに思いを馳せた。