津の守講談会 田辺一邑「テレビの祖 高柳健次郎」「オリンピック聖火台物語」田辺凌鶴「パラリンピックの父 中村裕」

津の守講談会に行きました。特集「昭和は遠くなりにけり」の初日のテーマは「技術の進歩」だった。
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一邑先生の「高柳健次郎」。明治32年に静岡県浜名郡和田村(現在の浜松市)に生まれた高柳は大正10年に「蔵前」と呼ばれた東京高等工業学校を卒業後、神奈川県立工業高校の教員に就職したが、それには満足せず、「10年、20年後の新技術を開発したい」という意欲に燃えている青年だった。いわゆる「青雲の志」を持っていた人物であることがわかる。
ある日、十字屋書店で見つけた本の挿絵に、美しい女性が箱の中に映っていて、その様子を人々が見ているというポンチ絵があって、高柳は「これだ!」と閃いたという。そこには「テレビジョン」という説明がしてあった。無線で音声が送れるなら、画像を送ることもできるのではないか。画像を電気信号に変えて送り、それをまた画像に戻す。無線遠視法と名付けた研究を始めたいと思ったのだ。
関東大震災が起きた大正12年。高柳はこの年に地元浜松に出来た浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)の助教授に就任する。校長の関口宗吉は東大理科を卒業し、「個性を最大限に生かす」という教育理念を掲げた男だった。高柳から「無線遠視法の研究をしたい」という夢を聞く。東京の歌舞伎座の舞台を浜松の家庭で観劇できるという技術…とわかりやすく説明する高柳に、「ラジオの電波も届いていないというのに」という関口の疑問に、高柳は「人が鳥のように空を飛べたらと思い、飛行機ができた。遠くの人と話がしたいと思い、電話ができた。それと同じように今は夢に思えることを実現したいのです」と熱く語る。
関口は「それが出来たら世紀の大発明だ」と興奮し、高柳は真空放電を応用すれば実現できると説明。だが、問題は予算の確保だ。高柳は「こういうときこそ、新しい産業を興さなければいけない。そうしないと、諸外国から遅れをとってしまう」と説いた。関口は「予算は何とかする」と言って、高柳と握手を交わす。この英断こそが、高柳の幸運だった。そして、テレビジョン無線研究室を開いた。
海外の文献に当たる。イギリス、オーストリア、アメリカ…各地でテレビジョンの研究がなされていた。イギリスの「ワイヤレスワールド」にジョン・ヘアードが書いたニプコー円盤が有効であることが判る。これを取り入れるべきか?高柳は悩んだ末に、「電子式」を採用する決断をする。
そのとき、思わぬことが起こった。高柳の最大の後ろ盾である関口が病気のために校長を退官することになったのだ。高柳の研究への学内の風当たりが強くなる。電気科の田中主任は講義をすっぽかすほど研究に夢中になる高柳に厳重注意をし、「もっと地に足が着いた」研究をするように言う。高柳は「10年、20年後には花形となる研究だ。フォーチュン、女神の前髪を掴むしかないんだ」と抵抗するが、「研究は中止せよ」と研究室は閉鎖され、研究費も出なくなった。
実績で示すしかない。画像の送受信のうち、送信はニプコー円盤を使うことにして自分で作ることにしたが、肝心の受信をする真空管は作れない。万事休すか。高柳は妻に頭を下げた。「スカンピンの田舎者だが、何かを成し遂げる人」と思って高柳と結婚した妻は嫁入りしたときの金を使わせてくれという頼みに頷いた。遠州銀行の預金通帳と印鑑を渡し、「出世払いよ」と微笑んだ。
そうやって購入した真空管を使って、何を映すか。西洋人はキリスト信者として十字架を映そうとしたが、高柳はイロハの「イ」の字を映そうと考えた。試行錯誤、色々と試したがうまくいかない。万策尽きたと思って、学校のグラウンドを見ると、陸上部員たちが走っている。「関口校長、あと一歩なんです。お力を貸してください」と呟いたとき、閃いた。「リレーだ!走査線を繰り返し、繰り返し送っていくのだ!」。
改良を重ねた実験装置によって、大正天皇が崩御した昭和元年12月25日、ニプコー円盤が送った「イ」の文字が真空管に浮かび上がった。崩れることなく、形を保ったままで。この4センチ四方の箱がすなわち、世界初の電子式テレビジョンとなったのである。この新技術が太平洋戦争という荒波を経て、昭和28年のテレビ放送開始へと成就した。
高柳はこう言葉を残している。技術は進歩と発展を遂げたが、同時に問題や弊害を引き起こした。人類の未来を予見し、その善悪を見極める科学的な鏡を作りたい。生涯、研究者であり続けた「テレビの祖」高柳健次郎らしい言葉で一邑先生が締め括ったのが印象的な高座だった。
津の守講談会に行きました。特集「昭和は遠くなりにけり」の二日目のテーマは「スポーツ礼賛」だった。
「三方ヶ原軍記」一龍斎貞昌/「猿飛佐助 幸村との出会い」田辺凌々/「武蔵坊弁慶 生い立ち」宝井優星/「上毛かるた由来~塩原多助」田辺一記/「パラリンピックの父 中村裕」田辺凌鶴/中入り/「男女ノ川」宝井琴星/「オリンピック聖火台物語」田辺一邑
凌鶴先生の「パラリンピックの父」。九州大学を卒業して国立別府病院の整形外科を担当することになった中村裕は、上司から「リハビリテーション」について調査するように命じられ、イギリスに渡る。そこではグットマン博士による最新の脊髄損傷重症患者医療が行われていたが、機能回復訓練としてスポーツが採用されていることに衝撃を受ける。車椅子に乗った人たちがバスケットボールに興じ、いきいきとした表情をしている。日本ではせいぜい簡単な体操や歩行訓練にとどまっていた。スポーツの力を目の当たりのだ。
また、障害者が自分の相応しい職業に就いている。障害者雇用率が国によって定められていて、障害者が働きやすい職場環境作りが推進されている。また、健常者がボランティアとして、それを支えている。日本では考えられない福祉の充実に目を見張ったのだった。
中村は帰国後、車椅子の障害者3人にバスケットボールをゴールに入れるゲームをやってもらった。彼らが楽しそうにしていることに喜びを覚える一方で、外野では疑問の声があがり、事故を起こしたときの責任はどうするのか?障害者を見世物にするのか?と批判された。昭和36年に大分で障害者スポーツ大会を開催したが、盛り上がらず、「気まぐれな医者が障害者と遊んでいる」と心無い陰口を叩かれた。
脊髄損傷者を対象としたストーク・マンデビルスポーツ大会が昭和35年にローマで開催されると、中村は2名の選手を派遣した。水泳で銅メダル、卓球で8位の成績を挙げる。少しずつではあるが、リハビリのためのスポーツの必要性の声は高まっていく。
昭和39年にストーク・マンデビルスポーツ大会が東京で開催されることが決まる。団長は中村。招待されたグットマン博士は大会挨拶で、「日本では下半身が不自由な人のリハビリに7~8年かかるが、イギリスでは半年でできる。それはスポーツを採用しているからだ」と、障害者スポーツの必要性を説いた。皇太子夫妻も出席し、「障害者の希望と励ましになる」と挨拶した。
7日間8種目。中村は53人の日本人選手をスカウトし、出場させた。障害者は自宅や療養所に引きこもるのではなく、スポーツをするべきだという国民の意識を高めた。だが、日本の車椅子は一種類しかなく、それも23キロと重いのに対し、外国人選手の車椅子はオーダーメイド、16キロと軽量であるという現実もつきつけられた。パラリンピックという名称は昭和63年のソウル大会から使われたが、この東京大会が事実上のパラリンピックのスタート地点になったと言っていい。
外国人選手のほとんどが職業に就いているのに対し、日本選手は53人中5人しか仕事をしていなかった。「障害者に仕事を。働く工場を」という中村の願いに作家の水上勉が賛同し、その計画を練った。医者なのに、なぜ工場を建設し、運営するのか?本分を治療であり、領域から外れるのではないか?そういうことは国などの行政に任せるべきではないか?という周囲の声を押し切って、水上勉が全国各地で講演して寄付を募り、昭和40年に「太陽の家」という工場が建った。従事者は15名。希望者が殺到して第二第三の工場も建ち、100名の障害者が働けるようになる。多くの人が趣旨を理解、賛同して寄付をした賜物だ。
だが、中村は大分県から別府病院と太陽の家の両方で働くのは駄目だと通告があり、別府病院退職を選ぶ。中村は障害者就労において欠かせない存在となり、「辞めてもらっては困る」という声が強かったからだ。
パラリンピックで5大会連続の団長を務めた中村だが、どこかに物足りなさを感じていた。脊髄損傷者だけでなく、全ての障害者が参加できる大会にしたいと考えたのだ。グットマンさえ、「それは時期尚早だ」と言った。万が一、事故を起こしたら?調子が悪くなったら?という不安があるからだ。だが、中村は「スポーツは全ての障害者に希望と勇気を与える有効なリハビリだ」と主張。
昭和50年、大分で「フェスピック」という名称の障害者スポーツ大会を開催し、18か国、1000人が参加した。グットマンは中村に対し、「君の意志の強さは流石だ。これからの障害者スポーツはあらゆる障害者に開かれるべきだ」と師弟の握手を交わしたという。これが今日のパラリンピックの常識になっているからすごい。57歳の生涯を障害者スポーツに捧げた中村裕の物語に感動した。
一邑先生の「オリンピック聖火台物語」。昭和39年に開催された東京オリンピックの聖火台は、埼玉県川口市の鋳物師、鈴木文吾が作ったものである。父の萬之助とともに鋳物工場を営んでいたが、太平洋戦争までは軍需品を多く作っていた。しかし、戦後は平和な時代に合った仕事をしたいと神社仏閣の天水桶などを主に手掛けた。
昭和33年、日本で開催する第3回アジア大会はオリンピックの予行演習的意味の強いものだった。大会組織委員長の田畑政治はIOCにアピールしようと、聖火リレーを提案し、聖火台を作ることになる。大手企業が尻込みする中、名誉に思った鈴木親子が受けて立った。僅か3カ月という期間で納入しなければならなかったが、工程途中で萬之助が病に倒れ、逝去。文吾は父の遺志を受けて、背水の陣で臨み、納期一週間前に見事に完成することができた。
昭和34年、ドイツのミュンヘンで開かれたIOC総会。5年後のオリンピックの開催を決める選挙に、アメリカのデトロイト、オーストリアのウィーン、ベルギーのブリュッセル、そして東京が立候補した。下馬評ではデトロイト有利と見られたが、日本のプレゼンターの平沢和重が素晴らしいスピーチを行った。小学6年生の国語の教科書に採用されている「五輪の旗」を引き合いに出し、かつては極東と言われた日本も航空機の発達で距離が縮まった、五輪のうちの残りの一つの輪であるアジアで今こそオリンピックを開催すべきだと熱弁したのだ。結果は58ケ国中34ケ国の票を集めて当選した。
五輪担当大臣の河野一郎の「アジア大会の聖火台は最高傑作だ。これをオリンピックでも使うべきだ」という鶴の一声で、鈴木文吾の作った聖火台が採用される。
「このオリンピックは日本だけのものではない。アジア全体のもの」という理念を貫き、ギリシャの聖火はアジア13ケ国をリレーし、まだ本土復帰していない沖縄を経て、日本本土へ。4つのルートに分かれて46都道府県を走り抜けてきた。そして、10月10日、国立競技場の開会式。94ケ国の入場行進の後、最終走者の坂井義則が聖火を掲げて入場し、聖火台に点火した。
このとき、鈴木文吾は開会式には招待されていない。自宅のテレビでこの様子を観て、男泣きしたという。鈴木は平成20年に逝去したが、それまで毎年、10月10日には父の萬之助の墓参りにつもりで、国立競技場の聖火台を磨きに行ったという…。素敵な物語であった。