あの人に会いたい 第52代横綱 北の富士勝昭

NHK総合テレビで「あの人に会いたい 第52代横綱・北の富士勝昭」を観ました。

北の富士さんがNHKの相撲中継の専属解説者になったのは、平成10年。56歳のときである。日本相撲協会の理事選の候補から外れたのがきっかけとなり、あっさり協会を退職したのは、いかにも北の富士さんらしい。弟子の千代の富士が引退したときに、すぐに九重部屋を継承させ、自分は陣幕親方として脇から支える判断をしたことと共通した潔さが素敵だ。北海道出身だが、江戸っ子気質なところがあったと僕は思う。

テレビ中継での歯切れ良く、ユーモア溢れた解説ぶりは人気を博した。令和5年春場所からは病気療養でお休みしたが、およそ四半世紀にわたって相撲解説を続けて、現在の相撲人気を陰から支えた功績は大きいと思う。現役時代は10回優勝して、横綱として一時代を築いた。引退後は親方として千代の富士、北勝海と二人の横綱を育てた名伯楽。そして、人気相撲解説者。すべてをやり尽くしての大往生ではなかったか。

番組の冒頭、昭和46年夏場所千秋楽で北の富士が玉の海を破って全勝優勝を果たした一番が流れた。次の名古屋場所では逆に玉の海が全勝優勝。まさに北玉時代と呼べる時代の到来を告げたかのように思えたが、その年の10月に玉の海が二十七歳で急逝してしまった。弔問に訪れた北の富士が涙を流しながら、「これからというときにね…」とインタビューに答えているのが印象的だ。

北の富士と玉の海は昭和39年夏から46年秋まで45場所中、43回対戦している。北の富士の22勝21敗。横綱昇進後の対戦成績は6勝4敗。まさにライバルとして一時代を築くはずであった。昭和45年初場所千秋楽、北の富士が1敗、玉乃島(後の玉の海)が2敗で対戦し、玉乃島が勝って優勝決定戦に持ち込んだ。決定戦は北の富士が雪辱を果たし、二場所連続優勝。場所後に二人は同時に横綱に昇進した。北の富士さんは当時を振り返り、「大関を4年もやっちゃったからね。これはいかんと反省した」。そのときにライバルとして玉乃島が目の前に出現したことで、危機意識を持ち、奮起できたのだという。

北の富士は同郷の横綱千代の山に誘われて、昭和32年に14歳で出羽海部屋に入門。なかなか芽が出なかったが、三段目の頃に元常ノ花の出羽海親方が急逝し、元出羽ノ花の武蔵川が出羽海を継いだ。そのときに、親方から「肉が付けば強くなるぞ」と言われ、やる気になったという。昭和38年九州場所で史上3人目の十両全勝優勝を果たすと快進撃。昭和41年秋場所に大関に昇進した。

ここで北の富士にとって大きな転機が起きる。元千代の山の九重親方が「分家を許さず」という出羽海部屋の不文律を破り、分離独立。北の富士は「千代の山親方に付いていくしかない。独立が認められなければ、俺も辞める覚悟だった」と振り返っている。独立直後の昭和42年春場所、見事に初優勝を飾った。「千代の山を男にした」と思った。だが、それと同時に「やる気になればできる。すぐに横綱になんかなれる」と天狗になってしまった。相撲界で言う「タコになる」というやつだ。相撲を甘く見た。歌手として「ネオン無情」というレコードを出したり、銀座のクラブで遊び歩いたり、「夜の横綱」「銀座の帝王」なんていう悪い渾名がついてしまった。

それが横綱昇進し、毎場所優勝を争うようになったのも、ライバル玉の海のお陰だろう。玉の海急逝前の優勝は北の富士7回に対し、玉の海6回。まさに好敵手だった。通算10回の優勝で、昭和49年引退。

引退後は九重親方として、第58代横綱千代の富士と第61代横綱北勝海を育てる。常々言っていたのは、「俺の逆をやっていりゃ、間違いないぞ」。反面教師になるという型破りの指導が功を奏した。そして、一緒になってよく遊び、その上で他の部屋に負けるなとよく稽古したという。良いところを褒めちぎって、その気にさせることも忘れなかった。一見、型破りに見えるが、実は理に適っている。

番組の最後に紹介された北の富士さんの言葉。「弟子と師匠は出会いであり、恋愛関係だね。お互いに相思相愛。愛情をもって育てろということですね」。

享年八十二。相撲をこよなく愛し、スマートな相撲哲学を貫いた北の富士さんの素晴らしさを改めて思った。