知恵泉 三遊亭円朝

NHK―Eテレで「知恵泉 三遊亭円朝」を観ました。三遊亭円朝はどのようにして近代落語の祖になったのか。それを多角的に分析した良い番組だった。

天保10年(1839年)湯島に生まれた円朝は父も落語家で、6歳で小圓太という名前で初高座を踏む。8歳で父の師匠であった二代目円生に入門。16歳のときに江戸で起きた、7千人の死者を出す大地震が復興景気を呼び、大工などの職人が暮らしに余裕が出て寄席に足を運ぶようになったことが、円朝の落語に変化を及ぼしたという。

職人は派手な仕掛けを好むと考えた円朝は芝居噺を始め、これが受けたのだ。寄席で主任を勤めることになり、助演(すけ)を師匠円生に依頼する。「お前は明日、何を演るんだ?」「道具入りで三絃堀を演ろうと思います」。すると翌日、先に出演した円生は「三絃堀」を高座に掛けてしまう。円朝は同じ「三絃堀」で挑むが、客席はしらけてしまい、居たたまれなくなって高座を降りた。「師匠は少し耄碌したのだろう。明日こそは」と思っていたが、翌日も同様の仕打ちだった。

京都芸術大学准教授の宮信明氏は円生の行動について、「一つは嫉妬、苛め、意地悪が考えられる。だが、もう一つは弟子を育てようというキツめの洒落だったかもしれない」と分析した。

これを機会に、円朝は「師匠の未だ知らざる噺を我が力の及ぶだけ自ら作ろう」と決心する。そうして、出来たのが「累ヶ淵後日の怪談」であり、「おみよ新之助」であった。後者は人生初の大入り満員を記録した。円朝は「人のする噺は決してなすまじ」と思うようになる。

そして、22歳のときには寄席15日間興行で「怪談牡丹燈籠」を連続で掛ける。怪談噺と仇討噺を交互に構成したこの作品で、円朝は新境地を拓き、名人へと登り詰める。宮信明氏は「地の語りを上品な“です”“ます”調にして、登場人物の言葉と違いをつけたことも成功の原因だ」と述べている。

明治に入り、円朝は芝居噺から素噺に方向転換し、それでも人気は揺るがなかった。40代で落語界の親玉的存在になった。内田魯庵は円朝の芸を以下のように分析したという。

円朝の噺は少しの誇張も無く、ワザとらしい型に嵌った抑揚もなく、あたかも我々が家族の団欒で語るように極めて平淡で自然的であった。真に稀代の芸術であった。

この時代、ステテコの円遊、ラッパの円太郎などナンセンス芸が人気となり、客層も変わった。長編落語より珍芸を求めた。明治14年、国会が開設され、議事記録が必要とされたことが円朝の落語に大きな転機を作る。速記者の若林玵蔵が「高座を速記して本にしたい」と依頼してきたのだ。円朝は若林に15日間、楽屋で速記することを許し、明治17年の「怪談牡丹燈籠」が出版され、大ヒットとなった。

言語の写真法をもって記したるがゆえ、是冊子を読む者はまた寄席において円朝子が人情噺を親聴するが如き快楽あるべきを信ず。坪内逍遥はこれを高く評価した。

成蹊大学教授の大橋崇行氏はこう語る。物語の中の人物が自分の目の前にて見える。ファンタジーの登場人物ではなく、現実にいる人間のように作中人物が感じられた。しかも話し言葉で自分の感情や出来事を話している。

これが二葉亭四迷が明治20年に「浮雲」を発表したときに影響を与えた。いわゆる言文一致体である。円朝は次々とヒットを飛ばす。「塩原多助一代記」は12万部のベストセラーになった。これに目を付けたやまと新聞は「松の操美人の生理」を三か月連載し、東京で2位の発行部数を誇るようになる。

明治15年、銀座に電灯が出来、もはや「幽霊は非科学的だ」と言われるようになると、円朝は「幽霊は神経が見せる幻影」だとして、「真景累ヶ淵」を発表する。

悪いことをせぬ方には幽霊という物は決してございませんが、人を殺して物を取るというような悪事をする者には必ず幽霊というものがありまする。是が即ち神経と云って、自分の幽霊を背負って居るような事を致します。

「怪談牡丹燈籠」にも手を加えた。宮氏はこう分析した。元々は幽霊が恋い焦がれた男性を取り殺す話だが、明治時代になると幽霊の仕業に見せかけて人間が殺人を犯している。幽霊の怖い話から、人間の怖い話になった。

明治22年、落語講談速記専門雑誌「百花園」が創刊された。毎号1万5千部の発行を誇った。やまと新聞では人情噺「文七元結」の連載もされた。そして明治24年、円朝は52歳のときに寄席から引退を表明、自ら筆を執るようになる。「読む落語」の誕生だ。中央新聞に連載された「名人長二」はフランスのモーパッサンの「親殺し」を翻案した作品だ。

当時、探偵小説ブームがあり、講談をミステリーで語っていく探偵講談が流行した。スコットランド出身の初代快楽亭ブラックなどが活躍した。時代のアンテナに優れていた円朝も話題を察知し、それを取り込むのが上手い落語家だったと大橋氏は分析した。

明治33年、61歳で逝去。伝統的なものこそ、あえて新常識と組み合わせることをした三遊亭円朝は天才だったと言える。神田伯山先生は分析する。今の時代、毎日同じ時間に同じ場所で連続モノを楽しむというのは難しい。だから、YouTubeでその魅力を知ってもらい、面白い!と思ったら現場に足を運んでライブを楽しんでほしい。ライブが一番面白い。そのために新しい技術を伝統芸能に掛け合わせていくことが大切ではないか。

また、宮信明氏はこう言う。速記だから今の時代でも演じることができる。音声や映像だったら、そこに囚われてしまう。速記だからこそ、チャレンジがしやすい。近代的なメディアだった速記本と落語の口演が出会ったことが令和の時代でも円朝作品を楽しめることができるのだなあと腑に落ちた。