熱談プレイバック 円谷英二物語

NHK総合テレビで「熱談プレイバック 円谷英二物語」を観ました。貴重なアーカイブス映像とドラマチックな講談の語りのコラボレーションによるこの番組は第1回が千代の富士、第2回が手塚治虫を取り上げ、大変興味深い内容だった。そして、今回は特撮の神様、円谷英二。講談師は初登場の神田春陽先生だ。

怪獣映画の金字塔と呼ばれる「ゴジラ」は昭和29年(1954年)の作品だが、英二は明治34年(1901年)の生まれだから、そのとき51歳。大正8年に映画界に入り、カメラマンなどをしていたが、花形俳優の顔に影を作って撮影し、上層部に激怒される変わり者だったそうだ。英二の意図は「人物の感情、場のムードを引き立てる」というものだったが、当時の映画会社には理解されなかった。だが、これにこそ「特撮」の原点があるように思う。

昭和17年に「ハワイ・マレー沖海戦」を製作し、大ヒットとなったが、英二は戦後になって戦意高揚の罪で公職追放指定を受けてしまう。「もう戦争は懲り懲りだ」という思いが、「ゴジラ」製作の起点になるというのも面白い。昭和29年3月1日、ビキニ環礁付近で焼津のマグロ漁船、第五福竜丸がアメリカの水爆実験で被曝、乗組員23名が放射能を浴びて原子病になる。英二はこれをヒントに、水爆実験の影響で太古の恐竜が日本近海に現れ、東京を襲うという「ゴジラ」を思い付いたのだ。核の脅威=ゴジラなのだ。

当時、特撮は映画の世界では“添え物”“子どもだまし”扱いで、本流ではないとされていた。英二は「このゴジラでそれを覆そう」と本多猪四郎監督とタッグを組んだ。原水爆実験の申し子ゴジラの恐ろしさを世に知らしめよう!中国から引き揚げ、原爆被害に遭った広島の惨状を目の当たりにした経験を持つ本多も意気込んだ。

だが、壁は厚かった。着ぐるみは当時の素材で作ると100キロにもなって、動きも緩慢になってしまう。また撮影スタッフも“寄せ集め集団”で経験が不足しており、東京の街を破壊するというシーンがうまく撮れない。英二は特殊技術のイロハを教え、火薬の量や仕掛ける場所、フレームサイズをどのように計算するのかをたたきこんだ。

完成した映画「ゴジラ」は1954年11月3日に公開。生々しくて、恐ろしい映像は話題となった。そこには英二ならではの工夫があった。着ぐるみが重いことを逆手にとり、すり足で歩かせて、ハイスピード撮影をする。これによって、高さ50メートル、2万トンの怪獣が歩くだけで恐ろしく見えた。また、白熱光で鉄塔が溶けるシーンは、鉄塔をロウと鉛で作り、照明の熱で溶かした。そこには英二の「特撮魂」があったのだ。

「ゴジラ」が世界的ヒットとなり、英二は“世界の円谷”と呼ばれ、次々とヒット作を飛ばす。「空の大海獣ラドン」「モスラ」…。英二は昭和38年、61歳のときに円谷特技プロダクションを設立。「これからはテレビの時代だ」。テレビドラマの製作に挑もうとした。オプチカル・プリンターという最新の合成機材を購入するためには多額の資金が必要だったが、TBSが名乗りをあげた。

UNBALANCE(アンバランス)というタイトルのテレビドラマ製作に社運を懸けた。それは、自然界のバランスが崩れたときに起こる不可思議な現象を描くSFであった。しかし、TBSのプロデューサーは駄目出しをする。「日曜夜7時の子どもたちが見る番組。もっとわかりやすく、ユーモラスなもの。怪獣モノを!」という注文だった。

英二はショックを受けた。英二を「おやじさん」と慕って集まった若いスタッフは怪獣路線への変更を余儀なくされ、これまで書いた台本を棄てた。英二の長男である円谷一は振り返る。「テレビ映画は映画に較べて二軍みたいな見方をされていた。そこで、第一線の人たちが全力投球できる場にしよう!と燃えた」。

若いスタッフは議論を重ねた。「怖いばかりが怪獣じゃない。怪獣にだって色々なやつがいるはずだ」。英二のこの言葉が火をつけた。風船怪獣バルンガ。ガソリンや電気といったエネルギーを吸って巨大化するが、暴れたり、町を壊したり、人を襲ったりしない。それまでの怪獣のイメージを覆した。

そして、次々に個性的なキャラクターが生まれる。隕石怪獣ガラモン、コイン怪獣カネゴン、誘拐怪人ケムール人…。それぞれの怪獣に性格付けをして、ユーモラスなコスチュームを考えた。スタッフは楽しみながら没頭し、全28話が出来上がった。

タイトルは「ウルトラQ」。東京オリンピックの体操でウルトラCが連発されたのを受けて命名された。昭和41年1月2日、第1話「ゴメスを倒せ」放送。放送が終わると、TBSから電話があった。「大成功だ」。視聴率は毎回30%を超え、怪獣ブームを巻き起こした。翌年には「ウルトラマン」が放送される。

特撮の神様、円谷英二のあっぱれな開拓者精神が伝わってくる番組だった。