熱談プレイバック 新幹線誕生物語

NHK総合テレビで「熱談プレイバック 新幹線誕生物語」を観ました。貴重なアーカイブス映像とドラマチックな講談師の語りのコラボレーションによるこの番組、神田春陽先生の「円谷英二物語」に続いて、神田阿久鯉先生による「新幹線誕生物語」だ。

今や東京・新大阪間を最短2時間21分で結ぶ新幹線。その計画は昭和14年の「東京下関間新幹線計画」に遡るというのが、まず興味深い。大正14年に東京大学を卒業し、鉄道省に入省した島秀雄は昭和10年にD51形蒸気機関車の開発を手掛ける。通称デゴイチは最高時速85キロ、実に1115両が製造されたSLの傑作と呼ばれた。そして、当時輸送量の限界を打破するために計画されたのが、「東京下関間新幹線計画」。最高時速150キロ以上、所要時間18時間半だったものを9時間と半分にしようというもので、“弾丸列車計画”と名付けられた。

この計画の最高責任者は秀雄の父、島安次郎。安次郎は息子に車輛の設計を任せ、親子二代で夢に突き進んだ。用地を買収し、小田原・三島間の新丹那トンネル、静岡・浜松間の日本坂トンネルなどが掘られた。参考にしたのは南満州鉄道のパシナ形の列車。流線形のフォルムで最高時速130キロを誇る鉄道技術の頂点を視察した秀雄は「200キロも夢じゃない」と考えた。設計された1/40の模型は特異なマスク、流れるボディラインは現在の新幹線の原型を思わせる。

だが、戦争の影が忍び寄る。昭和16年、太平洋戦争勃発。新丹那トンネルは工事途中で中止となり、弾丸列車計画も夢と消えた。そして、終戦。その翌年、安次郎は無念のまま亡くなったが、新幹線の夢は秀雄が引き受けることになる。

昭和23年、東京・沼津間に最高時速120キロの新型列車を走行させる計画が浮かぶ。そのとき、秀雄が提案したのが「電車」だった。これまでの蒸気機関車ではなく、電気で走る電車に可能性を見出したのだ。これが湘南電車、80系電車だ。これまでの所要3時間が2時間半に短縮された。

だが、思いもよらないことが起きる。昭和26年4月24日、桜木町で起きた列車事故は死者106名を出した。63系電車だった。秀雄は古い車輛の改善を訴え、屋根を鉄板に変え、車輛を自由に行き来できるようにし、非常通報装置の設置を進めるように指示を出す。と同時に、秀雄は事故の責任を取って、国鉄を辞職した。

その4年後の昭和30年。第4代国鉄総裁の十河信二から秀雄に連絡が入った。「国鉄に戻ってきてくれ。君の力が必要だ」。東京・大阪間の新幹線計画が持ち上がり、十河は秀雄に白羽の矢を立てたのだった。だが、「今更戻れない」と秀雄は拒む。十河は「君にはお父さんの夢を完成させる義務がある」と熱心に説得した。「私の片腕になってくれ」という十河の熱い思いに、秀雄は心が動かされ、「全力でお手伝いします」と引き受ける。

昭和30年代、東海道線の輸送力は限界に達していた。その強化のため、東京・大阪間を8時間から3時間に短縮するという前代未聞の「世界最速の電車」を開発することを決める。ヒントになったのは小田急ロマンスカー、3000形SE車。新宿・小田原間を1時間で結ぶこの特急は、国鉄と私鉄が共同で開発したものだった。国鉄の路線を使ってテスト走行をおこない、「国鉄が私鉄の列車を走らせるとは何事だ」という批判もあったが、最高時速145キロを記録するまでになった。

昭和33年、特急「こだま」がデビュー。東京・大阪間を6時間50分で結び、日帰りができると“ビジネス特急”と呼ばれた。一方で走行テストは163キロまで伸び、いよいよ新幹線計画は加速していく。だが、ここに予算という大きな問題が立ちはだかった。どう見積もっても3000億円はかかる。十河は秀雄に「あくまでも数字の上だ」と断って、2000億円未満の予算計上で国会を通過させる。十河は言った。「責任は私が引き受ける。君は現場を頼む」。十河が線路を枕に討ち死にする覚悟であることを、秀雄は察し、「なにがなんでも実現しなければ」と意気込んだ。

昭和34年、起工式。秀雄の信念は「鉄道で最も大切なのは安全だ」。あくまでも安全性を確認した技術で夢を実現することを忘れなかった。このとき、問題となったのは「蛇行動」だ。列車が高速走行する際、激しく振動する現象で、間違えれば脱線の危険すらある。秀雄は松平精にこの問題を託した。松平は海軍で航空機を担当した技術者で、零戦の空中分解の原因を突き止めた実績がある。松平はこれを受け、振動を吸収するバネを開発、蛇行動を抑え込むことに成功した。

テスト用車輛が完成した。空気抵抗を減らす流線形のフォルム、線路上の障害物をはねのけるスカート。高速走行の性能と安全性をとことん突き詰めた車輛だ。昭和38年、速度向上試験。時速は200キロを超え、加速し最高時速256キロを記録した。

昭和39年10月1日。東海道線新幹線、開業。ひかり1号が東京駅を発車した。日本が世界に誇る高速鉄道時代が到来した。だが、この晴れの場に最大の功労者である十河信二も島秀雄もいなかった。予算の赤字の責任を取って、十河は前年に総裁を退任。これを受けた秀雄も「99%完成した。私がいなくても大丈夫」と現場を去っていた。

秀雄はこう語っている。「技術者は人類の知見に貢献すべきです。個人や会社や国の名誉を求めてはいけない」。父・安次郎とともに描いた夢を陰から支えた男の心意気に痺れる番組だった。