玉川太福月例独演会「主任つとめてきました物語」、そして けんこう一番!三遊亭兼好「宿屋の富」
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玉川太福月例木馬亭独演会に行きました。「主任つとめてきました物語」(曲師:玉川鈴)と「紺屋高尾」(曲師:玉川みね子)の二席。開口一番は玉川き太さんで「不破数右衛門の芝居見物」(曲師:玉川さと)だった。
先月21日から30日まで新宿末廣亭一月下席夜の部で、初の主任を勤めた太福先生。浪曲師が寄席定席で主任を勤めるのは、二代目広沢菊春先生が昭和35年に横浜にあった相鉄演芸場、それに川崎演芸場で主任を勤めて以来の快挙であり、この歴史的興行を目撃しようと連日お客様が大勢押しかけ、二階席までいっぱいの大入り満員。札止めの日があったという盛り上がりだった。その当事者である太福先生の10日間のドキュメントを唸ったのが「主任つとめてきました物語」だ。
寄席に欠かせないのが幟。通常、噺家さんなどは真打昇進のタイミングで披露興行のために幟を贔屓筋に作ってもらうが、太福先生の場合はそれがない。去年12月に後援会名義で発注。さらに、もう一本をご贔屓さんが1月に入って発注したが、興行に間に合うかどうか、ギリギリだと業者から言われたそうだ。1月13日に名古屋の大須演芸場に出演したときに、お客さんの一人に「今、幟を作っていますよ」と声を掛けられたそうだ。何と、業者は岐阜にあって、その業者さんが大須に来ていたのだ。内心、「幟に専念してほしい」とハラハラしたそうだが、結局1月16日に2本とも同時に出来上がり、納入されたそうだ。さぞかし安心したことだろう。
初日。一階席がほぼ満員という上々の滑り出し。この日、木馬亭の根岸席亭が「末廣亭さんにご挨拶に行きたい」とおっしゃって、太福先生が繋ぐ形で末廣亭の真山席亭とご対面という場面があったそうだ。席亭同士が名刺交換をするという、なんとも微笑ましい現場が目に見えるようだった。
二日目。中入りは春風亭柳橋師匠だが、代演でこの日は神田伯山先生が顔付けされた。太福先生は末廣亭には浪曲の立ち高座のセットもあると聞いていたので、この日はきっちり古典を立ちで演じようと黒紋付を持って家を出た。何気なく、Xを覗いたら、伯山先生が「文芸坐で男はつらいよを観た。寅さん、面白い」旨のポストをしていて、もしかして寅さん浪曲を期待していると匂わせているのか?と考えすぎてしまったとか。伯山先生に直接会ったら、全くそんな意図はなかったようだったと。主任は細部にまで気を遣うのねえ。
立ち高座は7年前の深夜寄席でやった経験が1度あったが、改めて座りの釈台高座との違いを認識したそうだ。「二階席のお客様が近く見える」ということ。普段、木馬亭は当然立ち高座だが、二階席はないので、新たな発見だったのだろう。ちなみに、終演後に立ち高座の組み立てをご覧になった北村会長が「間違った組み立てをしている」と優しく指摘されて、慌てたそうだ。以降は改善されたので、良かった、良かった。
四日目。高田文夫先生が来場されたそうだ。ご自身のブログでこの興行の宣伝をしてくれていたので、御礼の手紙を送ったら、「観に行くよ」と返信があったとか。実際にご覧になって、「若手中心の顔付けで頑張っていてすごい」と喜んでいらっしゃったそう。その日は「寅次郎 夕焼け小焼け」を掛けたが、高田先生がお好きな寅さん映画だったとも。ただ、「物販を欲張り過ぎるな」というご忠告もいただいたそうで、苦笑い。
五日目。初めての札止めが出る。それも17時台。この日の昼は横浜にぎわい座でソーゾーシーの公演があり、箱馬を運んでいたら、躓いて転びそうになった。だけど、何とか踏ん張りが利いて、足は捻ったが捻挫程度に収まり、骨折はしなかったのが幸いだったと。これも「主任がある!」という強い思いがあればこそだと振り返っていた。
七日目。知り合いから「二階席に〇〇さんが来ています」と連絡が入る。太福先生は浪曲師になる前に、老舗劇団研究生になろうかと悩んでいた時期があって、○○さんはその劇団の看板俳優さん。この日は「任侠流れの豚次伝」を掛けようと思っていたが、その情報を知って、一瞬演目変更が頭をよぎったそうだ。だけど、「300人のお客様とたった一人の憧れの方を天秤にかけるのは良くない!」と思い直し、「豚次伝」を決意したそうだ。
八日目。「中村仲蔵」を掛けた。この演題は講談の神田伯山先生の代名詞。だけど、自分の「仲蔵」は笑い沢山の柔らかめの演出だから、「あえて聴き比べをしてもらおう」と思ったとか。ヒザ前の桂南なん師匠が、いつもは自分の出番が終わると帰ってしまうのに、この日はジーッと袖で聴いていたそうだ。そして、終わった後に、小痴楽師匠が「軽い仲蔵!」と言ってきたのが、南なん師匠とセットで寄席の楽屋の空気が伝わってきて興味深い。
千秋楽。毎日、物販のために著書を50冊ずつ持って来ていたが、毎日完売しており、さすがに千秋楽はリピーターも多いし、厳しいだろうと思っていたら、弟子のき太が「70はいけるでしょう!」。蓋を開けたら、昼の部から居続けのお客様もかなりいて、早々に札止め。入場できなかったお客様には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだったという。いつも多めに印刷するプログラムが足りなくなってしまい、お茶子さんが「想定外でした」。
おまけ。五日目は打ち上げもなしで、夜10時過ぎに帰宅した。いつもこの時刻は大概寝ている9歳の娘が起きていた。そして、末廣亭の前で母親とピースしている写真を見せてくれた。「来ていたの?」「でも、(札止めで)入れなかった」。その日に掛けたのは「祐子のセーター」。102歳の曲師、玉川祐子師匠が太福先生の娘のセーターを編んであげる内容だ。「是非聴いてほしかったな」と言うと、「じゃあ、今、やって」。リビングルームで娘のために唸った。「やや受け」だったそうだ(笑)。
「けんこう一番!~三遊亭兼好独演会」に行きました。「六尺棒」「おごろもち盗人」「宿屋の富」の三席。ゲストはマリンバデュオのなつかよさん、前座は三遊亭げんきさんで「元犬」だった。
「宿屋の富」。無一文の男が宿屋主人に大法螺を吹く件。身の回りの世話をする奉公人が20~30人くらいいて、手紙を書こうと思ったら、文箱を用意する人間、墨を磨る人間、筆を持つ人間、宛先を書く人間、封筒に入れる人間、そして届ける人間が次々と世話をして、気が付いたら自分が何を書いたのかさっぱり判らないという…。
泥棒が入ったので、「さあ、どうぞ」と蔵の鍵を開けてやり、好きなだけ千両箱を運んでいいと言って放っておいたら、二、三日して「門から出られない」と泣きついてきた。蔵から門までの距離が余りにも長くて、道に迷ったので案内してくださいと言う。挙句の果てに「お腹が空いたので、金は要らないので、握り飯をください」。エピソードが一捻りしてあるのが、兼好師匠らしい。
構われるのが嫌いだから、汚いナリで、茶代も払わずに旅をしていたら、面白いくらいに待遇が悪くて楽しいとうそぶく。人は私という人間と付き合っているのではなく、私の金と付き合っている。金を使わないと人は動かない。これらの台詞は芯を突いていて、鋭い。
湯島天神の富くじ抽せん風景。「二番富が当たる」と言う男、数日前に天神様が夢に現れて「約束した一番富は都合によって当てさせることができない。その代わり、二番富を当ててやる」と言われた…。もし五百両が当たったら、全部小粒に両替して大きな袋に入れて吉原に行き、馴染みの女郎を驚かせた上で身請けして所帯を持つという妄想。朝から御膳に天婦羅があって、鰻があって、刺身があって、酒を二人で飲んで、「寝ましょ」、起きたらまた御膳に天婦羅、鰻、刺身、そして酒…、延々と繰り返すのが愉しい。結局、当たらなくて、うどん食って泣いているという…。
一文無しが見栄を張って、なけなしの一分で買った富札。一番富は子の千三百六十五番。掲示を見て、「当たらねえな…もうちょっとなんだよな…まるっきり違えば諦めもつくんだが…ん?似てる!…タッタッタッタ!」。何度も手元の富札と掲示板を見比べ、テンションが徐々に上がっていく様子が実に可笑しかった。