講談協会定席 神田織音「母の慈愛」、そして木馬亭講談会 田辺いちか「三方目出鯛」
上野広小路亭の講談協会定席に行きました。
「三方ヶ原軍記」宝井琴人/「和田平助 鉄砲斬り」神田ようかん/「姫路の雷鳴」一龍斎貞太/「秋田蕗」田辺一記/「10.19川崎球場」宝井一凛/「朝顔日記 熊沢蕃山廓のご意見」一龍斎春水/中入り/「母の慈愛」神田織音/「徳川天一坊 網代問答」神田春陽
一凛先生の「10.19川崎球場」。1988年のパ・リーグのペナントレース。首位の西武が全日程を終え、2位は就任1年目の仰木監督率いる近鉄だ。残り2試合に2勝すれば逆転優勝という川崎球場の最下位ロッテとのダブルヘッダー。マジック2。引き分けでは駄目で、2つ勝たないといけない。1試合目は9回までしか戦えない制約の中、シーズン限りで引退を決意している梨田の勝ち越しタイムリーで1点差で勝利。
2試合目は主砲のブライアントのホームランで勝ち越すも、リリーフした阿波野がロッテの伏兵・高沢に一発を浴び再び同点。当時の規定は試合時間が4時間を過ぎると次のイニングに入れないため、10回引き分けに終わり、優勝を逃した。手に汗握る試合の模様はテレビ朝日がニュースステーションに食い込んでも中継を続けたのを思い出した。一凛先生の近鉄愛が伝わる高座だった。
織音先生の「母の慈愛」。旅籠を営む車屋多左衛門の女房おくにが5ツになる八五郎を遺して逝去。日光屋仁兵衛の勧めでお直という女性を後添えに迎えた。勿体ないほどの良く出来た貞女の鑑のような女性なのに、息子の八五郎が「おっかさんがぶったり蹴ったりする。自分は魚で飯を食うのに、おいらには沢庵で飯を食わせる」と父親の多左衛門に訴える。これを真に受けた多左衛門は怒り、「離縁だ!」と言って、煙管でお直の眉間を叩きつけ、乱暴をした…。
そこへ江戸から日光屋が訪れ、多左衛門から事情を訊くとすぐにピンとくる。半年前に車屋に泊まったとき、枕の下の胴巻が何かに引っ張られているのに気づいた。部屋の外から八五郎が竹竿で胴巻を盗もうとしていたのだ。日光屋は「了見を改めなさい」と言って一分を渡したが、梯子段を降りる八五郎は舌を出して笑っていた。お直に訊くとしばしば客のものに手を付けるので、小言を言い、折檻しているが、言う事を聞かないので困っているという。
そのことを日光屋は多左衛門に話し、「お直さんの目の前で手をついて謝れ」と命じる。甲斐甲斐しく八五郎の着物の縫物をしているお直は「こうなったのは私が至らないからです」と殊勝なのが素晴らしい。八五郎の了見を叩き直すために、日光屋は八五郎を江戸の店に預かり、親代わりとなって厳しく育てると進言し、多左衛門もお直もそれを了承した。元々は利発な子どもである。知恵を働かせる方向さえ間違えなければ、極めて優秀な商人の卵であり、実際了見はすっかり改まった。
10年後、八五郎が今市宿の車屋に帰ってきた。「これまでのことは勘弁してください。これからはご恩返しをします」。そう言って、両親の片腕となって一生懸命に働いた。この評判が伝わり、河内屋久兵衛の娘お花との縁談が持ち込まれ、婚礼を挙げた。そして、この若夫婦が車屋を切り盛りするようになり、立派な親孝行をしたという。血の繋がっていない息子ゆえに、お直は子育てに苦労したが、それが報われた。ハッピーエンドの嬉しい読み物だった。
春陽先生の「網代問答」。山内伊之賀亮の利発、機転および教養によって、天一坊を吉宗の御落胤だと京都所司代、そして老中筆頭伊豆守をはじめとする5人の老中に認めさせるすごさ。だが、それに一人異を唱える大岡越前守が再調べを願い出て、伊賀之亮と対決するところの迫力は満点だった。越前守の鋭い質問にもたじろぐことなく、スラスラと弁舌鮮やかに答える伊賀之亮に惚れ惚れする。だが、越前守も負けていない。この後、紀州調べによって形勢は逆転するのか。次への興味をそそる、長編スペクタクルだ。
夜は木馬亭講談会に行きました。
「出世浄瑠璃」神田伊織/「南総里見八犬伝 犬塚信乃」松林伯知/中入り/「三方目出鯛」田辺いちか/「天保六花撰 河内山と直侍」一龍斎貞橘
いちかさんの「三方目出鯛」。100石取りの旗本、穴山小兵衛が年末の支度に困って、かつて隣人だった600石取りの松下陸奥守に10両の無心を頼む手紙を下男の八助に届けるよう命じるが。敬意を表して「松陸奥守」と欠字を使ったがために、八助は62万石の“仙台様”こと松平陸奥守の屋敷を訪ねてしまう。
殿様は手紙を読んで、これは日頃贅沢をしている藩士たちへの戒めになると考え、手紙を掛け軸にし、八助を酒肴の御馳走で歓待。さらに、家来に10両と米俵を持参して穴山家を訪ねさせる。穴山は「これは間違いだから受け取れない」と拒むも、使者の津田玄蕃は受け取って頂かないとこの場で切腹するという…。
この話を耳にした将軍綱吉は「あっぱれ、清廉潔白」と評価し、穴山を100石加増し、松下陸奥守はこれを改めて松下石見守とした。「陸奥間違い」として浪曲や落語になったものは、これにかなり滑稽味を加えてあるが、講談ではあくまで「正直の美しさ」を強調したものになっているのが、いかにも講談らしくて良い。
貞橘先生の「河内山と直侍」。河内山宗俊のところへ金を融通してほしいと訪ねた片岡直次郎、通称直侍だが、河内山に「いくらほしい」と訊かれて、「100両」とはったりのつもりで答えると、あっさり100両を渡す河内山。これには直侍も「肝の据わり方が違う」と心を奪われてしまう。
二日後に再び河内山を訪ねた直侍は酒樽と鯛、伊勢海老を持参し、「一昨日の御無礼は水に流してください」と謝る。さらに、100両も返却し、利息の50両をつける。「河内山様には感服した。子分でも弟分でもいい、可愛がってほしい」。これによって、河内山と直侍は兄弟の盃を交わし、後に天保六花撰として名を連ねる仕事をすることになる。続き物として聴きたい読み物だ。