講談ボタニカル 一龍斎貞弥「稲むらの火」、そして禁じられた噺 桃月庵白酒「文違い」
講談ボタニカルに行きました。今回は災害から身を守る講談特集ということだった。
「五平菩薩」田辺凌天/「稲むらの火」一龍斎貞弥/「エルトゥールル号の遭難~山田寅次郎の足跡~」宝井琴鶴/中入り/「北斎の娘 葛飾応為」田辺銀冶/「阪神淡路大震災 負けたらあかん、ありがとう」神田すみれ
貞弥先生の「稲むらの火」。安政元年11月5日に起きた安政南海地震をきっかけとする和歌山県有田郡広村の庄屋、濱口梧陵の功績を讃えた読み物で、この話は小泉八雲が「生き神」(ア・リビング・ゴッド)として小説化し、また和歌山の教職員だった中井常蔵が文部省に「燃ゆる稲むら」として応募して、昭和12年から22年まで国語の教科書に掲載された。そして、東日本大震災があった2011年に実に64年ぶりに教科書に復活したそうである。
地震があったとき、濱口は広村の高台にいた。海を見ると、すぐに大津波が来襲することが分かった。だが、村人の大半は広八幡神社の村祭りに準備をして、「津波が来るぞ」と大声で叫んでも、祭囃子にかき消された。そこで濱口は田圃にある稲むら(脱穀後の藁の山)に火を点け燃やす。闇を焦がすように燃え盛る炎を見て、村人は異変を感じ、ようやく高台へと避難した。
やがて村に津波が襲い、175軒の家が流されるのを村人たちは眼下に目撃し、茫然とすると同時に、稲むらの火で命が助かったことを喜んだという。人口1323人中、死亡したのは36人。情報の迅速性の大切さを思い知ったことだろう。
だが、濱口はさらに動いた。地震によって家族や家財や職を失った人が沢山いる。村を捨て、出て行こうとする人も少なくなかった。これでは村が滅んでしまう。濱口は堤防を作ろうと考えた。村の離散を防ぎ、失職者たちの雇用につなげ、何よりも防災になる。高さ8メートル、幅680メートルの堤防を築いた。この事業は公共事業ではなく、濱口が現在の額にして1億円相当の私財を投げうって実施されたことは特筆されるべきだろう。この防波堤によって、昭和36年の第二室戸台風までの100年間、村は災害から守られた。
濱口梧陵は広村の隣の岩田町で醤油問屋の別家に生まれ、千葉県銚子の本家(今のヤマサ醤油)に養子に出て、その後広村に戻って来たのだった。34歳で耐久舎という私塾を開校、これは現在の和歌山県立耐久高校である。明治4年に大久保利通に推挙により、後の郵政大臣にあたる初代駅逓頭に就任している。その後、初代和歌山県議会議長も務めた。
現在の和歌山県広川町では、平成15年から「稲むらの火祭り」が開催され、毎年11月には津波祭りも行われている。また、安政南海地震のあった11月5日は世界津波の日に国連が制定した。濱口梧陵の偉大なる功績を知ることができて、大変勉強になった。
琴鶴先生の「エルトゥールル号の遭難~山田寅次郎の足跡~」。大日本帝国と親交のあったオスマン帝国が明治22年に軍艦エルトゥールル号に使者を乗せて、現在のイスタンブール(当時コンスタンティノープル)から横浜港に着き、明治天皇に勲章を授与した。そのエルトゥールル号が母国に帰還する際に和歌山県沖で嵐に遭い、熊野灘にある紀伊大島沖合に座礁した際、600名の乗員が海に投げ出された。
そのうちの69名が紀伊大島に行き着き、助かった。59戸の半農半漁の島だが、米を炊き出し、鶏を捌いて食料として提供したという。今でもこの島にはトルコ式の慰霊塔が建っており、日本とトルコの交流の架け橋となったことが窺えるそうだ。
このエルトゥールル号の遭難の犠牲者の遺族に義捐金を送ろうと立ち上がった24歳の青年がいた。山田寅次郎という茶道の宗徧流の家元の息子だ。一座を作って演芸演説会を全国各地を廻って開き、当時で3000円、今のお金で換算すると3千万円という義捐金が集まったという。だが、日本とトルコには当時国交がなかった。外務大臣の青木周蔵に相談すると、「君が直接トルコに行って渡すのが良いだろう」と言われた。
寅次郎はトルコを訪問。皇帝のアブデュルハミト2世が宮殿に招待し、勲章を贈った。さらに日本文化を伝えてほしいと懇願され、20数年にわたって現地に留まり、貿易商をしながら、民間大使的な役割を果たしたという。この寅次郎の功績がトルコ国民の親日に大いに寄与したことはいうまでもない。
昭和60年のイラン・イラク戦争のときにフセイン大統領が無差別攻撃を宣言したとき、ヨーロッパ諸国は自国の航空機を用意して国民を帰国させた。だが、264人いる日本人駐在員は取り残されてしまった。そのとき、トルコは航空機を2機用意し、日本人救出にあたった。これも明治時代から連綿と続く日本とトルコの民間交流あってこそのことだろう。
いつの世も国、政府は何もしてくれない。そんなとき民間の力が大いに活躍する。2つの読み物を聴いて、どこかもどかしい思いをしたのは僕だけだろうか。
上野鈴本演芸場十月下席二日目夜の部に行きました。今席は桃月庵白酒師匠が主任で、「禁じられた噺」と題したネタ出し興行だ。①お見立て②文違い③突き落とし④付き馬⑤花見の仇討⑥不動坊⑦休演⑧居残り佐平次⑨錦の袈裟⑩宿屋の仇討。きょうは「文違い」だった。
「たらちね」入船亭辰ぢろ/「目黒のさんま」桃月庵こはく/太神楽 鏡味仙志郎・仙成/「もぐら泥」入船亭扇橋/「馬のす」柳亭左龍/漫才 風藤松原/「道具や」春風亭百栄/「蜘蛛駕籠」春風亭一之輔/中入り/民謡 立花家あまね/「鮑のし」隅田川馬石/奇術 ダーク広和/「文違い」桃月庵白酒
白酒師匠の「文違い」。お杉の手練手管。田舎から出てくる角造に対しては「見かけは野暮だけど、芯は粋なのよね。いつの間にか惚れている。自分がどれだけいい男か判っていないのが憎らしい」と持ち上げる。そして母親が長患いで人参という高価な薬を飲まないと治らない、それが20両すると騙す。角造は村の仲間の茂十から馬を買って帰ってきてくれと頼まれていて、後金の15両を預かっているが、それを渡すわけにはいかない。それを強引に奪おうとするお杉の理屈が凄い。「馬の方が大事なんだ?私のおっかさんはどうでもいいの?馬とおっかさんを一緒にするの?どうせ、お前さんと私はただの客と女郎だもんね。夫婦約束はなかったことにしよう」。この台詞で角造が「おらが悪かった。15両、受け取ってくんろ」となるのだから、お杉は詐欺師として相当腕がある。
もう一人の犠牲者、日向屋の半七には、「血の繋がっていない悪縁の親父が何度も無心に来る。20両払えば、もう無心に来ないと言っている。助けると思って都合してほしい」と懇願する。勿論、こちらも噓八百だ。15両は角造から貰ったので、5両を渡せばいいのだが、半七にとっても方々駆け回って借りて来た金。「できることなら義理の悪い借金は作りたくない。15両あれば十分じゃないか」とお杉に言うが、お杉は承知しない。「ただの女郎のために借金なんかしたくないわよね。20両あれば私たちは浮かばれて晴れて夫婦になれる。お前さんと一緒になりたいために言っているのに…もういいです!」。この台詞で半七も降参してしまうから凄い。「悪かった。勘弁してくれ。つまらないことに意地を張っちゃったんだ」。
この噺の面白いのは、これだけ二人の男を騙しているお杉なのに、実は間夫の芳次郎に騙されているという二重構造だ。芳次郎は目を患って、早くしないと潰れちまう病気、真珠という薬のために20両が必要という…これもまた噓八百。本当は他の店の小筆という女を田舎の大尽に身請けされないために必要な金なのだ。それをお杉はすっかり騙されているという…。
「今晩くらいはゆっくりできるんだろ?」というお杉に、芳次郎は「一刻を争うんだ。特にこの病気は女から涌き出る気が良くないそうだ」。「でも、大変な思いをして拵えた金なんだよ。一晩くらいは泊まっておくれよ」とねだるお杉に芳次郎が嫌な顔をすると、「嫌!泊まっていかないんだったら、渡さない!」。
すると、芳次郎も芝居が上手い。「じゃあ、帰らせてもらうよ。俺が泊まっていくと言っても、一刻も早く医者のところに行っておくれと言うのが本当だろ!そんな金、要らないよ!どけ!帰る!」。お杉は慌てて、「怒ったの?ごめんなさい。私が悪かったよ」と訂正して、20両を渡す。芳次郎はつかさず、「お前だから、つい甘えてしまった。すまねえ」と言って、そそくさと店を出ていく。
廓という騙し騙されの世界の愚かさ、騙されるのは承知で遊んでいるはずなのに、ついつい本気になってしまう人間の弱さ。それらをユーモアにくるんで組み立てた「文違い」は傑作である。