一龍斎貞弥「寛永三馬術 悍馬鬼黒」、そして坂東玉三郎×春風亭小朝「越路吹雪物語」

上野広小路亭の講談協会定席に行きました。

「老農 船津伝次平」田辺一記/「寛永三馬術 悍馬鬼黒」一龍斎貞弥/「曲馬団の女」神田すみれ/中入り/「宇喜多秀家 配所の月」宝井琴鶴/「出雲の大山」宝井琴星

貞弥先生の「悍馬鬼黒」。またの演目名を「越前家召し抱え」。曲垣平九郎の中間の度々平が実は向井蔵人という曲垣と並ぶ名人で、三馬術の一人だったということが最後に判明するのには驚いた。

部下の度々平の失態で丸亀藩を追放になった平九郎は度々平と二人で諸国行脚の旅に出て3年、越前福井に出た。旅立つときに持っていた300両は使い果たしてしまった。この越前で誰かに雇ってもらえないか。機転の利く度々平は持ち前の調子良さで、越前藩の厩部屋で部屋頭をしている“のみこみの太左衛門”に取り入って、二人が別当として奉公させてもらうことに成功する。

平九郎は実の名前を明かせないので、江戸の贔屓にしている鰻屋の名前を拝借して「和田平」と名乗り、平九郎と度々平の関係は主従というわけにいかないので、兄弟分ということにした。しかし、度々平も平九郎も何も働かずに厩部屋でゴロゴロしているばかり。それでも太左衛門親分は「何か役に立つ日があるだろう」とのんびりと構えているというのがいい。

ある日、松平越前守忠直のところに尾張藩から「鬼黒」という名前の馬が贈られた。大変な暴れ馬で、乗りこなすのが大変なため、忠直は八木作左衛門に飼い慣らすように命じた。だが、八木は馬術の心得が全く無く、殿様の命を打っ棄っておいた…。すると、暫くして殿が八木に馬場で鬼黒の御前披露をしろという…。果たして、八木が鬼黒に乗ると猛スピードで駆け出し、放り出されてしまった。鬼黒は馬場を暴れ回り、怪我人が出る始末…。

こういうときに役に立つのが、あの別当だと考えた太左衛門親分は、飼馬小屋で寝ていた度々平を呼び出す。度々平は事情を聞き、「そんな馬、こちらの手にかかれば猫同然だ」と請け合うと同時に、「これで旦那を世に出す時節が訪れた」と喜ぶ。案の定、度々平が馬場に登場して鬼黒を乗りこなすと一同安堵、しかも馬上で曲乗りまで披露して、ヤンヤの歓声が上がる。

松平越前守忠直は大いに喜び、身分と名を聞き、「厩部屋の別当、度々平です」。「お前は馬術の名人だな」と褒めると、「名人ではありません。上手くらいでしょうか。名人は他におります。この藩の飼馬小屋の屋根で昼寝をしています…和田平とは仮の名前、実は曲垣平九郎です」。

早速、「曲垣を呼べ」となり、平九郎が馬場に現れ、「馬術をご覧いれます」と言って、鬼影という馬で霞隠れ、玉隠れといった曲乗りを披露。忠直はすっかり気に入って、「1000石で余に仕えてくれ」。そして、弟分の度々平は「平九郎に奉公せよ」と言うが、実は度々平も世を忍ぶ仮の名で向井蔵人という馬術の名人だったという…。こうして、平九郎と蔵人はともに越前藩に召し抱えになった。能ある鷹は爪を隠す。素敵な名人譚である。

琴星先生の「出雲の大山」はゴードン・スミス原作。出雲松江藩の家臣、大根陣内と妻のおりょうとの間には子どもがいなかった。そこで大山の頂上にある大神山神社に参詣して子宝に恵まれますよう祈念した。その帰り道、赤松池で出会った十六、七になる娘に「飲むと子宝に恵まれる」という甕の水をおりょうは飲ませてもらった。

その甲斐あってか、間もなく女の子が誕生し、千代と名付けてすくすくと育った。その千代が十六歳のとき、従兄弟の玉沖との縁談が持ち上がったが、千代は気が進まないようだった。だが、千代は両親に「結納を大神山神社に報告したい」と言うと、両親も尤もだと賛同。千代は乳母のおすまと大神山神社へ。

その帰り、赤松池の辺りで千代はおすまに告白する。「実は私は人間は仮の姿で、この池に棲む鯉なのだ。だから、私はふるさとであるこの池に帰らなければいけない」。そして、「両親にこれを渡してください」と手紙を託し、池に飛び込んだ。その姿は紛うかたなき鯉だった。

手紙を読むと、両親への感謝の言葉とともに「私に会いたくなったら、池に来て私の名を呼んでください。名は照手魚(てるてうお)と言います」。両親は感激し、池の畔に神社建立し、婿候補だった玉沖を神主にした。以来、この神社を訪れる男女は夫婦になれるという言い伝えがあるという…。

小泉八雲(ラフカデ・ヨハーン)同様、日本に残る怪談などを調べて回ったことで知られるゴードン・スミスの著作にはこういった不思議な話がいっぱいあるようだ。大変興味深かった。

夜は「坂東玉三郎×春風亭小朝 歌舞伎座特別公演」に行きました。

前半は落語芝居「怪談牡丹燈籠―御札はがし―」で、舞台の下手高座に玉三郎丈、上手高座に小朝師匠がそれぞれ座り、玉三郎丈がお露、お米、お峰、小朝師匠が萩原新三郎、伴蔵らの男性の役と語りを演じ分ける趣向。玉三郎丈の女性の声、特にお露の艶のある声が挿入されることで、高座に立体感が出たように思う。

後半は「越路吹雪物語」。着物姿から一転。スーツ姿の小朝師匠が越路吹雪の生涯を語り、合間合間に何度もドレス姿の玉三郎丈が“越路吹雪”を歌う。これが実に効果的な演出で、魅了した。

楽曲は①パリの空の下(BGM)②誰もいない海③群衆④白い夜⑤愛の幕切れ⑥ラビアンローズ⑦愛の讃歌。

コーちゃんという愛称で親しまれたシャンソンの女王、越路吹雪。彼女は幼少期には広沢虎造の浪花節の物真似を得意としていたという。宝塚に入団してトップスターになったが、そのときの岩谷時子との出会いは大きい。彼女の歌う作品の作詞家のみならず、マネージャーも勤め、公私において苦楽をともにしたパートナーだ。岩谷は97年の生涯を独身で貫いたが、恋の歌を書けたのは“恋多き女”越路吹雪の存在があったからだという。ちなみに、代表曲の「恋の季節」の♬夜明けのコーヒーというフレーズは越路がある男性から「夜明けのコーヒーを一緒に飲まないか」と誘われたエピソードによるものだそうだ。

昭和28年にパリへ。そこでエディット・ピアフのライブを観た越路は日記にこう記している。「ピアフを二度聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人泣く。悲しい。寂しい。私には何もない。私は負けた。泣く。初めてのパリで」。ピアフから受けた衝撃は相当なものであり、その後の彼女の歌手生活の支えとなったことが窺える。

越路吹雪はさらに大きな出会いをした。夫となる内藤法美である。東京キューバン・ボーイズのピアニストだった。代表曲「誰もいない海」の作者といえば、誰もが知っているだろう。越路は自分が6歳年上であること、内藤の方が無名であることを気にしたが、内藤は言った。「女は理解するものではない。愛するものだよ」。内藤が志ん生や文楽のレコードを越路に聴かせると、彼女は泣きながら、「孤独なんでしょうね」と言ったという。深い。

越路に「若さの秘訣」を訊くと、①心にお洒落をすること②誰も見ていないところでも女であることを忘れないことだと言ったという。日比谷の日生劇場のリサイタルはキャパが1250人で30日間連続公演のチケットが即日完売になった人気だった。意外にもあがり症だった越路は、岩谷に「あなたは虎よ」と言われて3回背中を叩かれて、ステージに上がったという。だが、いざ舞台に上がると、そこはもう「越路吹雪の世界」だった。

越路に「怖いもの」を訊くと3つ挙げた。①顔の右側を見られること。だから、写真は全部左側から撮ってもらった。②からっぽの客席。そんなときは「看護婦さんがいっぱいいるわね」と思うようにしたという。③ガンになること。親兄弟が全員ガンで死んでいた。だから、定期健診は欠かさなかった。

向上心のある越路はストレートプレイをしたいと劇団民藝の宇野重吉に頼んだ。昭和56年6月の「古風なコメディ」の舞台で、食べるものが胃につかえると訴えた。夫の内藤はすぐに病院へ連れて行く。いつもスポットライトを浴びていた越路が怯えていると、内藤は「手術台の上にもライトはあるよ」と励ました。

退院したらすぐにステージに上がれるように、マイクを握る握力をつける訓練をしていた。だが、ガンは進行しており、手遅れだった。最期の言葉は「沢山、恋もした。美味しいものも食べた。歌も歌った。もういいわ」。夫の内藤は霊柩車の進路を変更し、彼女の好きだったコスモスが咲き誇る中野の原っぱを通った。子どもはいなかった。若い頃から睡眠薬を服用していた越路の考えだった。愛犬のパンが仏壇の前で座布団に座り、遺影を見つめていたという。

岩谷が越路宅を訪ねると、夫の内藤は部屋いっぱいに貼りめぐらされた越路の写真を眺めながら、彼女の歌声をレコードで聴いていた。三島由紀夫は越路のことを「間違いなく怪物になる。しかし、愛され過ぎている」と語ったという。「手と足を食べながら生きてきた人生だった」と自ら振り返った越路吹雪の生涯はまさに身を削るようにして生き抜いた生涯だったのかもしれない。

昭和55年11月7日、永眠。享年56。そのとき、日生劇場では謎の停電が起きている。真っ暗なステージで越路吹雪が愛する人のために「愛の讃歌」を歌っていたのかもしれない。