柳枝百貨店 春風亭柳枝「乳房榎」おきせ口説き~重信殺し

「柳枝百貨店~春風亭柳枝独演会」に行きました。「反対俥」、「乳房榎」を中入りを挟んで「おきせ口説き」と「重信殺し」。開口一番は柳亭いっちさんで「元犬」だった。

「おきせ口説き」。自分が気に入った女はどんな手を使っても手に入れるという磯貝浪江の悪党ぶり、これは後半の「重信殺し」にも通じる部分だが、その手口に狂気すら感じるのが、この噺の眼目だろう。

菱川重信が梅川の縁日に妻のおきせ、息子の真与太郎、女中のお花、下男の正助を伴って出掛けたとき、浪江はおきせの美貌に一目惚れした。そして、この女を自分のものにしたいという動機から絵師として重信に弟子入り志願したというのだから、現代のストーカーの部類に入るのかもしれない。

意外とチャンスは早くに廻ってきた。重信が南蔵院の本堂の天井絵を描く仕事の依頼を受けて、泊まり込みで絵に集中したのだ。後に下男の正助が「先生は絵のことになると周りのことが見えなくなる。奥様やお坊ちゃまのことでさえ、後回しにしてしまう」と言ったように、浪江にとっては千載一遇のチャンスである。

重信の留守宅に毎日のように通い、「気遣いのできる人」というイメージをつけておいて、夜お暇する際に癪を起したふりをして、八畳間に布団を敷いてもらい、床に就く。そして、おきせが寝静まった頃を見計らって、真与太郎と添い寝をしているおきせの部屋に忍び入り、枕と首の間に手を入れ、おきせが気が付くと「大きな声を出すな。静かに言うことを聞け」と脅す。そして、おきせを初めて見た梅川の縁日以来、心を奪われ、弟子入りが叶うと益々思いは募ったと告白。「一度だけでよろしい。拙者の願いを叶えてくれ」と懇願する。

当然、おきせは拒む。「恥ずかしくないのですか?師匠の妻を口説くなど、言語道断です」。それでも迫る浪江に「嫌なものは嫌なんです。操を破るわけにはいかない。斬るなら、どうぞお斬りください」と覚悟を示すのは流石、重信の妻である。浪江は「あなたを斬るわけにはいかない。口外しなければ、誰にも知られることはない」と迫るが拒否され、「かくなる上は、拙者が腹を切る」。

それでも動じないおきせは「どうぞ、お腹を召してください。嫌なものは嫌なんです」と毅然とした態度だ。すると、浪江は「ならば、御免」と言って傍に寝ている真与太郎の喉元に脇差を突き付ける。「その子には何の罪もない」と言うおきせに、浪江は「この子が殺されるようなことがあれば、なぜあのときに聞き入れなかったのだろうとあなたは身共のことを思い出す。それだけで本望だ」と居直る。

これには流石のおきせも観念するしかない。「一度だけでご勘弁くださいまし」「拙者も武士、二度とは申さぬ」。そして、おきせは浪江に身体を許した。だが、一度で満足する男ではない。何かにつけて理由をつけて泊まり、おきせに迫る。おきせも恐いから許してしまう。そんなことを数度続けているうちに、おきせの方から「明日はお花を遣いに出すから、泊まってください」と言い出す始末に。浪江の思う壺だ。一旦手に入れたおきせを手離したくないという気持ちが強くなってくる。男と女の関係というのはそういう風にして深い沼にはまっていくものなのだろう。

「重信殺し」。いよいよ、浪江は重信を亡き者にして、おきせを完全に自分のものにしようと決断する。南蔵院の絵が完成したら、重信は自宅に戻ってしまい、これまでのようにおきせとの関係を続けることは物理的に不可能になるからだ。

浪江は南蔵院で絵に没頭している重信のところへ陣中見舞いに訪れる。ただ、これは形式的なものであって、重信と一緒にいる下男の正助を連れ出し、重信殺しへの加担を頼む伏線である。正助と花屋という料理屋に入り、酒肴を馳走する。そして、自分には身寄り頼りがいない、自分に意見をしてくれる伯父代わりになってくれないかと5両の金を渡す。最初は「こんな大金は受け取れない」と拒んだ正助だが、「田地田畑のことで助言をしてほしい」と言われ、そういうことであればと百姓出身の正助は承知するが、これが落とし穴だったわけだ。

伯父甥の盃を交わした後で、浪江はいきなり「柳島のご新造とできた」と告白する。ピンとこない正助に、「密通をした。つまり間男をしたのだ」と言うと、正助は「とんでもないことをした」と怒る。でも、とんでもないのはこの先だ。ついては、おきせを自分の女にしたいので、重信を殺す。だから、その手引きをしてくれと正助に頼むのだ。当然、正助は「恩義のある先生にそんなことができるわけがない」と断るが、もうすでに正助は浪江の術中にはまっている。

大事を明かしてしまったからには、まず正助を殺し、重信を殺し、おきせと真与太郎も殺し、自分も切腹して死ぬと脅すのだ。自分ばかりか、先生の家族にも迷惑がかかると知った正助は「わかった」と言って請け合うしかない。物事を順を追って、半ば強引に自分の利益に誘導していく浪江の計算尽くされた悪党ぶりに感嘆するばかりだ。

正助が重信を落合の螢狩りに誘い出し、浪江は田島橋の繁みで忍んでいて、背後から槍で突くという計略。正助は浪江の指示通りに重信を誘導するが、心の清い正助の描写が秀逸だ。螢が舞う様子を見て、重信は「見事な眺めだ。できることなら紙に映したい。それにはまず南蔵院の雌龍の右手を仕上げてからだ。俄然、仕事をしたいという気持ちが湧いてきた」と言う。これに対し、正助は螢が人魂のように見え、念仏を唱え、挙句には泣き出してしまう。「9年奉公して、可愛がって頂いた。色々と思い出され、涙が止まらない」。

だが、浪江の手によって重信は殺されてしまう。慌てて南蔵院に駆け込んだ正助は「先生が田島橋で狼藉者に殺された」と言うが、寺男は「何、寝ぼけている。先生は戻って、本堂で仕事をされている」。正助が障子の破れ目から覗くと、確かに本堂の灯が点いており、重信が中腰で絵を描き終え、落款を押していた。すると、重信がこちらを向いて「正助、何を覗く!」と一喝した。

そして、真っ暗になった本堂の中に入ると、重信の姿はない。だが、天井絵の雌龍の右手は描きあがっていた。そして、螢が一匹、飛んで来たが、すぐに消えてなくなったという。重信の亡霊だったのか…。余韻を残して、終わったのが印象的だった。