蜃気楼龍玉「女殺油地獄」
文月の独り看板「蜃気楼龍玉 女殺油地獄」に行きました。近松門左衛門没後300年だそうだ。龍玉師匠のこの噺を本田久作さんの脚本で聴いたのは2017年。7年ぶりの再演だ。18世紀初頭に人形浄瑠璃のために書かれたこの作品は当時の評判が良くなく、200年ほど封印されていたという。それが20世紀初頭に歌舞伎で上演され、その半世紀後に人形浄瑠璃で復活され、今日に至っているそうだ。そして、21世紀になって落語として龍玉師匠が口演しているというのも、また素晴らしいことだ。
油屋の河内屋の次男坊、与兵衛はどうしようもない放蕩息子だ。勘当されても仕方ないくらいなのに、義理とはいえ父親である徳兵衛が「心を入れ替えて真人間になる」ことを願って何度も庇っているところに、この人間ドラマの妙味があるように思う。
向島の花見。与兵衛は悪友の弥五郎と善兵衛を引き連れて、天王寺屋の芸者の小菊を待ち伏せしている。というのも、与兵衛が入れあげているのも拘わらず、小菊は与兵衛を振って、田舎の大尽と一緒に花見に出かけていると知ったからだ。この三人組を見かけたのは同業の油屋の豊島屋の女将、お吉だ。いつも河内屋から「うちの次男坊は芸者に入れあげ、茶屋の払いも滞り、稀代のドラ息子だ」と愚痴を聞かされている。お吉は与兵衛に声を掛け、芸者小菊が来たら踏みつぶすつもりだという与兵衛に、少しは慎んだらどうかと小言を言うが、与兵衛は聞く耳を持たない。
与兵衛の悪友二人はお吉を見て、「ちょっといい女じゃないか」と言う。「もう二十七の年増だ」「色は年増にとどめ刺すだよ」「人の女房だよ」「色は間男にとどめ刺すだよ。色の道を知らないな。ああいう女こそ味が良いんだ。不義を願ったらどうだい?」とけしかける始末だ。
そこへ頭巾を被った男と小菊がそぞろ歩きでやって来る。小菊は与兵衛が買ってやった着物だから、余計に腹が立つ。与兵衛が小菊に罵声を浴びせると、頭巾の男は金貸しの小兵衛だった。与兵衛は小兵衛から借金をしている立場だ。小兵衛に「私が融通した金をつぎ込んで振られる、これこそ風流だな、粋だな」と馬鹿にする。「借りた金は俺のものだ」と与兵衛が返すと、「悔しかったら、借金を返してみろ。返すあてがないのなら、お前さんは嘘つき泥棒だ」と小兵衛は居直る。
小兵衛を殴ろうと振り上げた腕が空振りして、転ぶ与兵衛。そのまま泥土を投げるも、小兵衛は避けて、通りかかった馬上の殿様に命中してしまった。部下の森右衛門が「無礼である。そこへ直れ。首を討つぞ」と言うと、与兵衛はその侍が母の兄、つまりは伯父である森右衛門であることに気づく。「伯父様!助けてください!」。森右衛門は立場上、表向きは許せないが、「その場に控えておれ」と言って、去って行った。気が付くと、悪友二人も芸者小菊もいなくなっていた。
豊島屋のお吉が泥だらけになって泣いている与兵衛を見つけ、傍の茶店の奥の間で泥をぬぐってやろうと入る。お吉と一緒にいた娘のお清とお光は外で父の七左衛門を待っているように言い聞かせた。そこへ七左衛門が到着して、娘にお吉の居場所を問うと、茶店の奥の間で与兵衛の帯を解いて、着物を脱がせて、紙で拭っているという…。七左衛門は「与兵衛め、女癖の悪いのが出たな」と激怒するが、慌てて出てきたお吉に事情を聞いて、自分の早とちりであることが判って一件落着。ここで中入り。
河内屋宅。長男の太兵衛が弟の与兵衛の放蕩ぶりを放っておけないと、義父の徳兵衛に相談している。伯父の森右衛門からの手紙が来て、与兵衛が殿様に無礼を働いたので、暇を貰い浪人になったという。このままでは河内屋の看板に傷がつく、与兵衛を勘当してくださいと願う。だが、徳兵衛は勘当したら人別帳から外され無宿となり乞食同様になってしまうと反対する。徳兵衛は太兵衛と与兵衛の実父だった先代徳兵衛が早逝し、番頭だった自分が後家となったお沢と夫婦となり、河内屋を継いだ。太兵衛は独立して店を持つ意思があるので、与兵衛を後継にしたいと考えていたが、勘当となると自分とお沢の間に産まれた娘おかちに婿を取らせなければならない。そうなると、自分のことを“身代泥棒”と陰口を叩く人もいるかもしれないと遠慮しているのだ。
徳兵衛が「私は真の父と思って兄弟を育てた。なのに、どうしてお前たちは倅と思ってくれないのだ」と言う。太兵衛は「私は倅だと思っている。それなら、どうして娘おかちと我々兄弟を分け隔てするのだ。与兵衛に拳をあげることができないのだ。だから性根が曲がるのだ」と責める。店で急用ができ、太兵衛は「与兵衛のことをくれぐれもよろしくお願いします」と言って去った。
「さて、どうしたものか」と思案している徳兵衛のところに、ひょっこり与兵衛が姿を現す。伯父の森右衛門が芸者に騙され、主人の殿様の金50両を使いこんで首を討たれてしまう、一生の無心だと言っているので、50両を渡しに行くから出してくれないかと言う。だが、徳兵衛はそれが作り話であることを見抜いている。
こうなると、与兵衛は開き直りだ。もういいよ。この河内屋の身代を俺にくれ。実の親父が遺してくれたもの、端から俺のものなんだ、返せ!この泥棒野郎!と徳兵衛を罵る。偉そうに主人ヅラして、お前は元は奉公人じゃないか、それを親父が死んだのをいいことに、おふくろを手籠めにして、この色気違い、色狂い!娘に婿を取らせ、俺を追い出す算段だな。そうまでして、俺の金が欲しいか!酷い口の利きようである。
徳兵衛が言い返す。お前だけには跡を継がせない。暖簾を落とすのがオチだ。先代への恩を忘れていない。俺が目の黒いうちは、この店を潰すわけにはいかないんだ。お前が心を入れ替えてくれれば…、そこまで言うと与兵衛は悪態をつく。俺が憎いんだろ?邪魔なんだろ?この泥棒野郎!与兵衛は徳兵衛を打ち、踏みつけにする。徳兵衛は「気が済むまで存分に踏みつければいい」と耐える。
そこに母のお沢がやって来て、与兵衛を止める。「血は繋がっていないが、親を踏みつけにするなんてとんでもない。勘当だ!今すぐ、出て行ってくれ」。芸者のところに行っておしまい、性質の悪い友達のところでも行くがいい、金がなければ誰も相手にしてくれないんだよ、ろくでなし!乞食になって、野垂れ死にしろ!出ていけ!そう言って、天秤棒を振りかざす。
その天秤棒を与兵衛が奪うと、お沢を打擲する。「産んでくれたおふくろを打つとは何事だ!」。今度は徳兵衛が与兵衛を打つ。「これは先代が打ったんだ。お前が心を入れ替えれば、身代を譲る」。すると、与兵衛は「心を入れ替えるから、勘当はやめてくれ」と懇願する。
しかし、お沢は許さない。「なりませぬ。何度騙されたか判らない。性根が腐っている。一旦腐ったものは、どんな風に当てても元には戻らない。我が子だから、追い出すんだ」。商売用の二升入りの油樽を与兵衛に投げつけ、「これがせめてもの親の情だよ!」。泣くお沢を宥める徳兵衛は「先代に申し訳ない」。
河内屋の向かいの豊島屋。娘のお清の櫛の歯が一本折れた。木場へ掛けを取りに行くという七左衛門が酒を呷ったが、うっかり立ち酒をしてしまった。これが最後の悲劇の伏線となる。
徳兵衛が訪ねて来た。与兵衛勘当の件をお吉に話す。奴のことが気掛かりで、もし立ち寄ったら、「父は許すと言っている」と伝えてくださいと頼み、二分を渡した。続いて、お沢も訪ねてくる。「穀潰しに金を渡すのはドブに棄てるのと同じだ。どうして義理立てするのだ?」と徳兵衛を責める。「倅が可愛い。何が悪い?」と答えると「あんなろくでなし、乞食になって野垂れ死にすればいい」。だが、お沢の懐から一両小判と赤飯が入った折りがこぼれ落ちた。そして、お沢は告白する。「商人の女房として、してはいけないことをしてしまった。店の金を持ち出した。赤飯は与兵衛の好物」。親が子を思う気持ちは不滅だ。
この一部始終を陰で聞いていた与兵衛は「とんでもないことをしちまった。だが、今さらおめおめと帰れない」。そこに金貸しの小兵衛が現れる。与兵衛が借りた金は25両だったが、利息が嵩んで50両になっている。河内屋の判を押した証文がある。本日七ツまでに50両を返すか、利息だけ2両2分払うかしないと、河内屋の身代がそっくり持って行かれてしまう。
与兵衛は豊島屋のお吉を訪ねる。お吉は今さっき徳兵衛とお沢が来て、1両2分と赤飯を置いていったことを話す。与兵衛は「心を入れ替えて真人間になろうと思う。詫びを入れるために、金がいる」。お吉がいくら要るのか問うと、「50両」。ビックリするお吉を見て、与兵衛は「たったの2両2分でもいいんです」「たったの?1両稼ぐのにどれだけの苦労があると思うの」とお吉が小言を言うと、与兵衛は両親からの1両2分があることに気づいて、「あと1両でいいんです」。
だが、お吉は与兵衛の性根が直っていないと見て、拒否する。「女だと思って、舐めてもらっては困る」。すると、与兵衛は「だったら、この俺と不義になってくれ…そして1両を工面してくれ…俺は前からお吉さんのことが…」。どうして、ここでそういう台詞が与兵衛から出るのか、不思議でならない。
色仕掛けが駄目だと判ると、正直に話す。金貸しに50両の借金があること、借金の形に河内屋の暖簾が入っていること、証文に河内屋の判が押してあること。ちゃんとした商いで稼ぐので、この樽に油を二升入れてくださいと頼む。だが、そのときには、与兵衛はすでにお吉から金を強奪する気になっていた。七ツの刻限まで時間が迫っていたからだ。
これが鐘の聞き納め、俺は待てない!与兵衛は油を樽に注ぐお吉の背後を短刀で刺す。襲われたことが判ったお吉は逃げるが、油がこぼれ、足元は油の沼状態だ。もう一度、与兵衛の刀はお吉の腕を刺す。「堪忍しておくれ!死にたくないよ。私には可愛い娘が二人いるんだ」「俺も俺のことが可愛いんだ。ここでお吉さんを殺さなければ、救われないんだ…頼む!死んでくれ!」。
最後はお吉の喉笛を短刀が刺して、血しぶきがあがる。そして、七ツの鐘が鳴り終わった。そこは油と血にまみれた、まさに地獄である。与兵衛という、どうしようもなく根性の腐った男に振り回された河内屋、そして豊島屋の人々の悲しい結末に心が痛んだ。