五月文楽公演 十一代目豊竹若太夫襲名披露「和田合戦女舞鶴」市若初陣の段
五月文楽公演Aプログラムに行きました。呂太夫改め十一代目豊竹若太夫襲名披露公演である。
「寿柱立万歳」/襲名披露口上/「和田合戦女舞鶴」市若初陣の段/「近頃河原の達引」堀川猿廻しの段・道行涙の編笠
この度襲名した十一代目若太夫は昭和22年生まれの77歳。昭和42年に三代竹本春子太夫に入門し、祖父の十代豊竹若太夫の幼名の三代英太夫を名乗った。春子太夫逝去で四代竹本越路太夫の門下となり修行を積んだ。僕が文楽を観始めてからは、平成29年に六代豊竹呂太夫襲名、令和4年に切語りに昇格したことが記憶に新しい。
初代若太夫は義太夫節を創始した初代竹本義太夫の弟子で、竹本座から独立して豊竹座を旗揚げした、いわば人形浄瑠璃文楽の歴史上の重要人物。歌うような芸風と伝えられ、竹本座の西風に対し、豊竹座は東風と呼ばれる芸風を確立したという。
十代若太夫は十一代目の祖父。声量が豊かで豪快な語り口で知られ、感情をぶわぁーと迸らせ、「命懸けの浄瑠璃」と讃えられたそうだ。昭和37年に人間国宝認定。八代竹本綱太夫は「お前の祖父さんは、ほんまの太夫やったな」と言っていたという。十一代目は直接祖父から稽古をつけてもらったことはないそうだが、幼少期より家で稽古している祖父の義太夫を聴いて育った。
豊竹姓の最高峰となる大名跡だ。十一代目はプログラムのインタビュー中で、意気込みをこう語っている。七十歳で呂太夫を襲名したときに、「喜寿で若太夫を継ぎたい」と思った。文楽の研究者で早稲田大学教授の故内山美樹子先生は「十代若太夫師匠は七十歳を過ぎても芸が進化した」と仰っていたので、「自分は八十歳からでも成長するぞ」という気持ちが湧いてきている。座右の銘は「渾身の力を込めて軽く」。感情を迸らせながらも軽く、喉でなく体幹で語るイメージで浄瑠璃に取り組んでいきたい。
今回、十一代目が襲名披露狂言に選んだ「和田合戦女舞鶴」は初代が初演した演目だそうで、祖父の十代目も昭和25年に襲名したときに披露狂言として語っているそうだ。東京では平成元年以来、35年ぶりの上演だという。
「和田合戦女舞鶴」市若初陣の段。一言で言えば、主従第一のために自分の息子の首を身替りとして差し出すことになった親子の情愛の物語である。
荏柄平太が源実朝の妹である斎姫の首を討った。そのために平太の妻・綱手と息子の公暁丸を捕まえるようにとの実朝の命が下る。家来の浅利与市の息子・市若丸は母親の板額とともに、政子尼公が綱手と公暁丸を匿っている館に乗り込み、その首を討とうとするが…。
板額は尼公から衝撃の事実を知らされる。実は公暁丸は亡くなった前将軍頼家の息子の善哉丸で、出家していたが、与市と平太に頼んで奪い戻し、平太夫婦の息子としてカモフラージュしていたのだった。与市は息子の市若丸を御落胤の善哉丸の身替りにするためによこしたのだ。尼公は善哉丸を助けてほしいと板額にお願いをする。
板額は嘆き悲しむが、市若丸に対して、「もしお前が公暁丸の立場だったら、どうするか」と尋ねる。迷わず、自害すると答える市若丸。板額は涙を隠し、市若丸を部屋に隠れさせる。そして、板額は苦渋の選択として、一芝居を打つ。市若丸は実は平太の息子であると市若丸に聞こえるように嘘をつくのだ。
それを聞いた市若丸は、自分こそが主殺しの荏柄平太の子であったのかと思い込み、自害をする。息絶え絶えの市若丸に板額は駆け寄り、ひしと抱き寄せ、「やはりお前は与市と私の子、だが前将軍の御落胤の身替りになってもらった」と真実を打ち明け、市若丸の手柄を褒める。市若丸は二人が本当の両親であること、そして手柄を立てられたことを喜び、息絶える。塀の外では父の与市が念仏を唱える…。
悲劇以外の何物でもないこれらのことが、美談として讃えられる戦国の世の哀れに思いを馳せた。