月例三三独演 柳家三三「乳房榎」、そして柳家花緑「柳田格之進」
月例三三独演に行きました。柳家三三師匠が「両泥」と「乳房榎」の二席。開口一番は柳家花ごめさんで「24時間マラソン」だった。
「乳房榎」は中入りを挟んで(上)おきせ口説き、(下)重信殺しに分けて演じたが、素晴らしかった。
梅若の縁日に菱川重信が妻おきせ、息子真与太郎、下男の正助、下女のお花を連れて出掛けたときに、磯貝浪江はおきせの美しさに心を奪われ、思いが募り、そのために重信に弟子入りしたという執念がすごい。重信が南蔵院の天井に龍の絵を描く仕事を引き受け、正助とともに泊まり込みで取り組んだとき、浪江は「ここがチャンス」と狙ったのだ。
浪江は毎日、主人の留守を守っているおきせと真与太郎の世話をするという名目で菱川宅を訪れていたが、意を決して芝居を打つのだ。癪を起したふりをして、床をのべてもらい、寝静まったところで、おきせの寝間に忍びこむ。蚊帳をくぐって、真与太郎に乳を与えていてはだけていた胸元めがけ、浪江はおきせの身体に覆いかぶさる。そして募る思いをおきせに聞かせ、「たった一度でいいから抱かせてくれ」と懇願する。当然、おきせは拒む。
浪江は脇差を抜いて、斬るぞと脅す。だが、好いた女を斬れるわけがない。今度は自分が切腹をすると脅す。だが、おきせは動じない。すると、すやすやと眠っている真与太郎の喉元に脇差を突きつける。これにはさすがのおきせも堪らない。「許してください」「思いを叶えてくれますか」「一度きりで堪忍してください」。我が子可愛さから、おきせは浪江に身体を任せた。
「一度きり」の約束だったが、浪江はそんな約束など知らぬ存ぜぬで、二度三度と迫り、おきせを抱く。そうなると、いつのまにか、おきせの方から浪江を求めるまでになる。女の身体というのは不思議なものである。浪江はおきせを手に入れることができた。後は邪魔者の重信を消してしまおうと思うようになる。
浪江が南蔵院の重信を見舞う。本堂の天井に描かれた龍は大作で、雄龍と雌龍の対になっている。あとは雌龍の右手を描けば完成というところまできていた。帰り際、浪江は正助の顔を借りたいと言って、二人で馬場下の料理屋に入った。「先生への土産に」と折詰を持たせ、正助に酒肴を馳走する。ここで浪江は重信殺しのための正助懐柔の策を施す。
自分には身寄り頼りがいない、叔父甥の仲になってほしい、さらに田地田畑の目利きをしてほしいと正助に5両を渡すのだ。純朴な正助はこれを素直に受け入れ、固めの盃を交わす。その上で、だ。「俺はおきせ殿と出来た。密通したのだ」と告白する。ついては、今宵、先生を亡き者にする手引きをしてくれと頼む。当然、正助は断る。「それではこのことを口外されては困る」から、貴様を斬ると脅す。究極の選択を迫ったわけだ。仕方なく、正助は浪江の重信殺しの片棒を担ぐことになる。
正助は重信を落合の螢狩りに誘い出す。そこで繁みに隠れていた浪江が竹槍で刺す算段だ。何も知らない重信は螢に見惚れ、「絵にも描けない美しさだ」と言う。このときの重信の絵師としての胸中の描き方が優れていた。
これまでは人の目、つまり評価を気にして絵を描いてきた。だから、最後の雌龍の右手がなかなか描けずにいた。だが、違う。龍が空を昇る様子をそのまま描けばいいのだ。後世に残る絵かどうかは、自分が決めることではない。自然と残るものは残るのだ。長年胸につかえていたものが取れたような気がする。
菱川重信が絵師の名人としての境地に達したことを、重信の台詞で表現した三三師匠の素晴らしさを思った。重信が浪江に殺された後、正助が南蔵院に戻ったとき、和尚は「先生は本堂で絵を描いている」と言った。そして、正助が障子に穴を開けて覗くと、重信が落款を押していて、見事に雌龍の右手は描きあがっていたというのは怪談じみてはいるが、“名人絵師”の魂が寺にいたということなのだろう。寺にはいないはずの螢の灯がひとつ、空を飛んでいたという最後の描写がとても印象的だった。
新宿末廣亭の落語協会百年興行×映画「碁盤斬り」に行きました。柳家花緑師匠が「柳田格之進」を口演した後、17日から公開される「柳田格之進」を基にした映画「碁盤斬り」の監督である白石和彌さんと花緑師匠の対談が行われた。
対談は映画のネタバレを避けるために余り深い内容にはならなかったのが残念だったが、そもそもなぜ「柳田格之進」を基にした映画を制作しようと考えたのか、それだけでも知りたかった。そこに落語「柳田」の魅力が隠されているように思ったからだ。
落語だと40分程度で、それも一人の語り芸であるのに対し、映画であれば2時間はあり、多くの場面があり、出演者がいるのであろう。だから、試写をご覧になった花緑師匠が藩、長屋、商人、吉原…と落語よりも世界観が広がっているように感じたという感想を持つのは当然のことだ。小泉今日子さん演じる吉原の女将が登場し、「文七元結」の要素なども取り込んだという。映画的視点で「柳田格之進」を構築すると、どんな膨らみ方をするのか。是非とも映画館に足を運びたいと思う。とても楽しみだ。
花緑師匠の「柳田格之進」。柳田が碁会所で知り合った好敵手の萬屋源兵衛に誘われ、浪人とはいえ“侍が町人の家に出入りする”ことへの躊躇が、月見の宴の際の50両紛失で濡れ衣を着せられることに繋がっていくという流れにしているのが良い。自分が世に出たときに恩返しをすればよい、生涯の友と呼べる仲でいたいという考えは間違いではない。だが、薄っすらと不安に思っていたことが表面化したとき、柳田は後悔したのではないか。
出来心というのは誰にでもある、ましてやあのような貧乏暮らし。ひょっとして柳田様がお持ちになったのでは?と番頭の徳兵衛が疑うのも不思議ではないと思う。だが、主人の源兵衛の「清廉潔白、そのような方ではない。だが、万が一そのようなことがあっても、柳田様に差し上げたい。お持ちになったなら、それでいい。もう二度と口にするな」という台詞に対し、番頭が嫉妬心を抱いてもそれはそれで仕方ないようにも思う。
だが、番頭はやり過ぎた。柳田の家を訪ね、50両紛失について柳田が「知らぬ」と言うと、奉行に届け出る、追って取り調べがあるだろうと迫るのは意地が悪い。困った柳田は「その場に居合わせた身の不運」と解釈し、「わしは盗ってはいないぞ」と断りつつも、50両を用立てると約束してしまう。
ここでクローズアップされるのが、娘の絹の利発である。お願いがございます。お腹を召すことだけはおとどまりください。武士の明心を示すつもりかもしれませんが、かえって柳田の家名に傷がつきます。武士道が立ちません。私と縁を切ってください。そして、赤の他人として吉原に身を売り、50両をこしらえてください。盗らぬものであれば、必ずどこかから出てきます。そのときには、萬屋の首を討てば良いのです。
そんな重い50両であることも知らず、番頭の徳兵衛は主人に「やはり柳田様から出ました」と報告する。源兵衛は烈火の如く怒る。この薄馬鹿野郎!あの金はいいと言ったろう!どうして行ったんだ?主思いの主殺しとはお前のことだ。生涯の友と思っていた柳田様を失ったショックは大きい。そして、番頭の愚かさを憎む。
それが暮れの大掃除のときに、離れの額の裏から50両が発見される。正月四日に湯島切通で番頭が出世した柳田格之進と出会い、真実を話す。翌日、柳田が萬屋を訪ねる。主人の源兵衛と番頭の徳兵衛は互いに庇い合い、自分の首を斬ってくれと願い出る。
そのときの柳田の台詞が沁みる。いまさら、そのようなことをして何になる?あの50両をどのようにして拵えたか、わかるか?娘の絹が吉原に身を売って拵えたのだ。絹は想像を超える辛い思いをした。すぐに身請けをしたが、笑顔が消えてしまった。もう一度、娘の笑顔が見たい。お前たちを斬らねば、娘に申し訳が立たぬ。
だが、柳田の刀が斬ったのは、源兵衛の首でも、徳兵衛の首でもなく、碁盤だった。「主従の情を目の当たりにして、心が揺らいだ」。番頭の徳兵衛は主人の配慮で他に店を構えさせた。そして、二番番頭の良之助が氷のような絹の心をほぐし、絹も「この方にお会いするために生れてきたような気がする」と言うまでになり、夫婦になった。これをきっかけに柳田と萬屋源兵衛の友情は復活し、生涯の友となり、その関係は孫子の代まで続いたという…。
花緑師匠いわく、「番頭の徳兵衛はどうしても許せず、二番番頭の良之助というキャラクターを新しく作りました」。見事な工夫だと思う。