歌舞伎「福叶神恋噺」、そして神田松麻呂「芳沢あやめ」春風亭かけ橋「三日月小僧庄吉」
歌舞伎町大歌舞伎に行きました。「正札附根元草摺」「流星」「福叶神恋噺」の三演目。
「福叶神恋噺」は落語作家の小佐田定雄先生が44年前に桂枝雀師匠のために作った新作落語「貧乏神」が原作だが、今回初めて歌舞伎化するにあたって、小佐田先生自身が脚本を担当し、大幅に改編されている。
貧乏神を男神から女神に変え、“おびんちゃん”の愛称で中村七之助が好演、そのおびんちゃんに憑り付かれる辰五郎を中村虎之介が熱演。腕は良いのに仕事に行かないダメ男をおびんちゃんは放っておけず、甲斐甲斐しく世話を焼く…というのがストーリーの芯になっている。
辰五郎の“放っておけない”キャラクターが虎之介にぴったりはまって、おびんちゃんだけでなく、大家さんや長屋の衆までもが手助けをしてあげたくなってしまうという…。妹のおみつは愛想を尽かして許婚の留のところに行ってしまうが、心のどこかで兄に立ち直って、仕事に精を出してほしいと願っているというのも、辰五郎の憎めないキャラクターゆえだろう。
本来、貧乏神というのは額に汗して働く人間の力を糧にしているのだが、一向に働かない辰五郎に業を煮やしたおびんちゃんは働くように促す。ところが逆に辰五郎が質入れした道具箱を請け出すための金を出してやる始末…。
それでも三日で仕事を休んでしまった辰五郎の暮らしを支えるために、女房同然に居候して、洗濯の代行や、傘張りなどの内職などをして生活費を稼いであげて、辰五郎を甘やかしてしまう。挙句におびんちゃんの目を盗んで、頭陀袋から金を持ち出そうとするところを見咎められ…。
これがきっかけになって、最終的には辰五郎が目を覚まし、真面目に働くと決心、妹や長屋の衆も喜んだ上に、千両の富くじが当たってハッピーエンド。単純明快で、ユーモアと人情味がたっぷりの舞台を楽しんだ。
夜は神保町に移動して、「春風亭かけ橋・神田松麻呂定例研鑚会」に行きました。かけ橋さんが「羽織の遊び」と「嶋鵆沖白浪 三日月小僧庄吉」、松麻呂さんが「芳沢あやめ」と「寛永宮本武蔵伝 玄達と宮内」だった。
松麻呂さんの「芳沢あやめ」、ネタ卸し。歌舞伎の女方の元祖と言われる役者の名人譚だ。紀州日高郡中津村に生れた仙太郎は幼少の頃から、大の芝居好きで、その才覚もあった。5歳のとき村の八幡様の祭礼で旅芝居の一座がやって来たとき、簾内に忍びこみ、芝居を観ていた仙太郎。囃子方の太鼓担当が急な腹痛を起こし、代わりに太鼓を叩いた。驚く一座の男たち。山おろし、波、雪、水音、ドロ…一通り叩ける。訊くと、以前来た囃子方に教わったという。
芝居は好きか?やりたいか?と問えば、やりたいと答える仙太郎。一座の親方が自宅に行って、「この子は芝居の世界に入れば、立身出世間違いない」と父親を説得した。だが、父親は「冗談じゃない。大事な百姓の跡取りだ。河原乞食などにさせるか」と猛反対。夢は潰えたかに見えた。
だが、その父親が病で床に就くと、亡くなってしまった。仙太郎は病弱な母と弟の三人暮らし。母親は「この子を役者にしよう!」と大坂へ出て、道頓堀の裏長屋に住む。仙太郎は初代嵐三右衛門の弟子となり、綾乃助を名乗った。腕を磨いて、二十歳で名題になり、芳沢あやめとなる。屋号は橘屋。俳名は春水。周囲からちやほやされ、天狗になっていた。
坂田藤十郎の芝居で「山椒大夫」が上演されることになると、藤十郎の口利きであやめが起用された。阿呆の娘の役だった。あやめは懸命に阿呆を演じたが、客が引くのが判った。やればやるほど、それが酷くなった。共演者の視線も冷たかった。なぜだ?終演後に座長の藤十郎に挨拶に行くと、「お疲れ様」以外、何も言われなかった。
二日目、三日目、四日目と思案して演じたが、客席はザワザワするばかり。「わかりやすく演じているのに、どうして受け入れてくれないのか?」。あやめは頭巾を被り、帰る客の声を聞いた。「大根役者」という言葉が耳に入って、ガックリした。陰気になり、げっそりと痩せ、食事が喉を通らない。悩みを母に訴えた。役者ではない母に判るわけがない。
夜中に雨戸の外から物音がする。何だろう?と見に行くと、雪の中、水垢離をしている母の姿があった。「息子の芸の工夫がつきますように」、観音経を一心不乱に唱えている母…それは観音様の姿に見えた。ここであやめはハッと気が付いた。「母の心は観音様の心に見える。私はこれまで立ち振る舞いや見て目に心を奪われていた。心から出る自然なこと、それこそが演技ではないか。できた!」。あやめは母に手を合わせた。
あやめは前日とはガラリと変わって、綺麗なお嬢様の格好で、その中で一つ一つの台詞や動きに愚かさを出した。すると、客席から笑いが起きた。観客とあやめの息が合った気がした。嬉しさ半分、不安半分で終演後に藤十郎の楽屋へ行く。
藤十郎が言った。あれでいいんだ。芸というのは心から出たことを表現すればいい。身振りは作るものではなく、自然と出るものなんだ。私がお前さんにすぐ言ったら、すぐに出来てしまう。それをお前さんは自分で何かを掴んだ。大きな一歩だよ。これからは自分しかできない芸を作っていきなさい。私もそうだった。芳沢あやめの芸を作っていきなさい。
「山椒大夫」は千秋楽まで大盛況に終わった。そして、その後もあやめはさらに修業を重ね、数々の名演を生んだ。故郷の日高郡の安珍清姫に題材を採った道成寺は「あやめ道成寺」と呼ばれ、三男の初代中村富十郎の「京鹿子娘道成寺」に繋がっている。また、あやめの芸談は「あやめ草」として現在に継承されている。素敵な名人譚だった。
かけ橋さんの「三日月小僧庄吉」。浅草の金太郎に身を寄せた喜三郎は、子分2人を連れて浅草の三社祭に見物に出た。すると、子どもが喜三郎にぶつかってきた。巾着切りだ。どうやらわけがあるようだ。喜三郎はその子どもを連れて、駒形の小料理屋へ入る。
その子どもは十五歳。小さいので十歳くらいにしか見えないが、度胸のある男の子だ。渾名を“三日月小僧の庄吉”と言い、浅草を縄張りにしていて、子分が30人いるという…。それも大の大人が30人。浅草今井谷の八百屋に生れたが、母と死別、親一人子一人で育った。親父が真面目一辺倒なのに反し、庄吉は酒、博奕、盗みと悪さを重ね、十歳のときに勘当され、圓通寺に修行に出されたが、すぐに逃げ出した。
両国で巾着切りの仕事を覚え、身体が小さいがすばしっこいのを強みに盗みを働いていた。あるとき、大名のお抱え力士の玉垣の持つ小柄(こづか)が立派だと両国の巾着切り仲間で評判となり、これを盗むことができたら両国中の親分になれるという賭けが持ち上がった。庄吉は果敢に挑み、玉垣から「くれてやる!」と小柄を手に入れたが、その代償として、手の甲を脇差で刺され、三日月型の傷ができた。以来、“三日月小僧の庄吉”と渾名されるようになったという。
この話を聞いた喜三郎は、「今日限りで盗みをやめろ。そして、他人様に役に立つ博奕打ちにならないか」と庄吉に言う。どうせ畳の上で往生できる身の上じゃない、常陸の土浦の皆次親分へ紹介状を書いてやると。すると、庄吉は「俺はあなたの子分になりたい」と言って、名前を訊く。
「俺は佐原の喜三郎だ」。これに庄吉はビックリして、「芝山の仁三郎に斬りこみをかけた?お虎の50両を救ってやるために身体を張った?」。「なんでお前はそんなことを知っているんだ?」と喜三郎が問うと、「成田でお虎さんの紙入れを盗んだのはオイラなんだ…だから、お詫びをしたいと思っていた。成田の街から馬刺しの菊蔵がいなくなって、皆が感謝しているぜ」。
庄吉は改めて、「オイラを身内にしてください。今日限りで盗みをやめて、真っ当な博奕打ちになります」。喜三郎は「わかった」と言って、親分子分の固めの盃を交わす。そして、30両の入った紙入れを渡し、「これで両国の巾着切りの子分に別れの挨拶をして来い」。庄吉は赤坂に住む父親に「盗みから足を洗うために拵えた金」と言って、5両を渡すために、喜三郎に手紙を書いてもらう。そして、庄吉と喜三郎は安倍川町の金太郎親分の家で再会することを約束して、別れる。
庄吉は赤坂の父親に挨拶をした後、両国の巾着切りの子分たちに別れを告げに行ったとき、その噂がお上に知れて、「御用だ!」と召し捕られてしまい、佃の寄せ場送りに。心残りは喜三郎に「心変わりしたのか」と誤解されてはいないかということ。一目会いたい一心で、島抜けを決行し、成功したかと思ったが、永代橋で火付盗賊改方の饗庭重右衛門に見つかり、再度召し捕られ、今度は三宅島に島送りとなった…。三三師匠を彷彿とさせるストーリーテラーとしての才覚、なかなかの腕である。