文藝春秋講座 喬太郎と大師匠五代目小さん

文藝春秋講座「喬太郎と大師匠五代目小さん」に行きました。柳家喬太郎師匠と長井好弘さんの対談が中心で、興味深い内容だった。

10分で学ぶ歴代の小さん師匠/喬太郎が見た、聞いた、感じた大師匠五代目小さん/質疑応答/中入り/「強情灸」柳家喬太郎

初代小さんは春風亭小さん。柳家ではく、春風亭柳枝の弟子だった人。一言で言うと「よくわかっていない」。音曲師出身で、不器量だったために、“粋な女性の名前”をと付けた高座名だったそう。

二代目からは柳家小さん。隠居して禽語楼を名乗ったことから、「禽語楼小さん」と呼ばれる。当時はトリの高座は人情噺というのが通例になっていたが、滑稽噺で勝負した名人。人情噺と言っても単純に「涙を誘う」噺だけではなく、講談で言うところの世話物という解説が入る。ちなみに「猫久」を作ったのは二代目。喬太郎師匠が芸歴30周年の落語会をスズナリで開いたときに、花緑師匠をゲストに招いた日に「猫久」を演じたら、花緑師匠から「ありがとう」と言われたそう。これぞ、柳家の噺ということだろう。

三代目。夏目漱石が小説「三四郎」の中で、「小さんと同じ時代に生きたことを幸せに思う」と書いたのは有名な話。「らくだ」を上方から江戸に移植したのもこの人で、大名人と言われ、第一次落語研究会の発起人だった。常に小さんの心でいるという意味の「小心居」を彦六になった先代正蔵は座右の銘にした。

四代目。小三治から馬楽、そして小さんの名跡を継いだ。五代目いわく「名人」。地味な芸風だったが、前座噺の「芋俵」を演じ終わって楽屋に戻っても、客席が「じわっていた」という…、喬太郎師匠がそのときの高座を観たかったと言っていた。「芸の嘘」をわかっていなきゃいけない、わかった上で高座で演じなければいけないと言っていたそう。五代目小さんが小三治で真打昇進した披露興行の人形町末廣の千秋楽を終えて、鈴本に行って、「鬼娘」を演じた直後に逝去。人形町末廣から駆けつけた五代目は涙を拭いながら、遺体に乗った人力車の後ろを押したという。五代目は真打昇進の3年後に小さんを襲名している。

小さん襲名については、当時の馬楽師匠も小さんを継ぎたくていて、八代目文楽が後ろ盾になって、小三治が小さんになった。そして、馬楽は根岸から正蔵の名跡を借りて襲名した。

東横落語会には41歳で、第五次落語研究会には55歳でレギュラーになっているが、歳が一回り以上違う円生と並んでも、貫禄があったし、自信や自負もあったのだろうと。ホール落語は客が大ネタを聴きたいと期待するが、小さんの大ネタというと「らくだ」「御神酒徳利」「三軒長屋」と数が限られるが、平気で「家見舞」を演じていたのがかえって客席を和ませていたと長井さんは語る。研究会で一番掛けた回数の多い演目は「首提灯」だそうだ。剣道の達人だった小さんが、切れ味鋭く首を斬るところ、お気に入りだったのではないかと。

剣道となると夢中だった五代目小さんの思い出として、喬太郎師匠は紀伊國屋寄席で聴いた「三軒長屋」では、楠木運平の剣術の道場のシーンを実にイキイキと演じていたのが印象に残っているそう。長井さんは何度か取材でインタビューしたときに、愚問とは思ったが「落語と剣道、どっちが好きですか?」と訊いたら、間髪を入れずに「剣道だ」と答え、「剣道ができるやる気と気力さえあれば、落語はできる」と理由を述べたと言う。

柳家の芸とは?という会場からの質問に、長井さんは「筋物ではなく、人物が浮かび上がる滑稽噺に真骨頂があるのではないか」と。喬太郎師匠が「三遊は型から。柳家は肚から」と言われるが、小さんの名言に「狸の了見になれ」というのがあるけれど、そこではないかと。五代目が十八番の「長短」を演じたときに、楽屋で見ていた芸人が、短七さんが長七さんにジリジリする様子を表現しているときに、「足の指が動いているのが判った」という…。それが柳家。小三治師匠が小さん師匠に「お前の長短は仲が悪いな」と言われたエピソードも有名である。

よく権太楼師匠とさん喬師匠を比較して、豪放磊落VS緻密な計算みたいに言われるが、それは違うと。さん喬師匠はそのときの感情で人物の描き方が全く違っていることが多い。それはまさに「肚から落語を演じている」ことではないか。小里ん師匠も「芸は教えられない。教えられるのは演出だよな」と言っていて、これも通底するものがあるのではないだろうかとも。

一見“おっかなそう”なイメージのある小さんは実はお茶目なところが沢山あったという話も面白かった。脳梗塞から復帰した鈴本の高座で「浮世根問」を掛け、八五郎が隠居に「マラソンっていうのは何ですか?」と問うと、走りながら高座を降りたことがあったとか。「疝気の虫」みたいだ。9.11の惨劇があっと後だと思うが、「うどんや」で七味唐辛子を掛けて食べる場面で、「うどんテロだな、こりゃあ」というアドリブを入れてきたそうだ。

小さん師匠のご自宅の冷蔵庫に入っているものは、弟子たちが自由に食べて良いことになっていて、桃缶があるのを見つけて皆で食べちゃったら、それを見つけた小さん師匠が「楽しみにしていたのに…」とションボリしていたというのも、絵が浮かんで可笑しい。喬太郎師匠が前座時代、二ツ目昇進が決まったときに、落語会のお伴で行ったら、寄せ書きを頼まれて、まだ昇進前だったのに、小さん師匠が「いいから、いいから。喬太郎と書いちゃえ」というエピソードも温かくて良かった。

対談の後に喬太郎師匠が披露したのは「強情灸」。今は志ん生の型で演じる噺家が圧倒的に多くて、その方が自分も面白いと思うが、私は柳家の型で演じますと言って、演じたのが良かった。2002年5月16日に87歳で亡くなった小さん師匠の最期の高座が鎌倉芸術館の「強情灸」。また、喬太郎師匠が高校生のときに東宝演芸場最終公演を観に行ったときに、トリで上がった小さん師匠は「強情灸」を演じたという。素敵な高座だった。