林家正蔵×林家つる子 師匠とわたし。
林家つる子真打昇進披露興行の物販で2000円で買い求めた「林家つる子」という小冊子を読みました。「林家正蔵×林家つる子 師匠とわたし。」と題した対談が大変興味深かった。
まず、正蔵師匠ご自身が真打に昇進したときのことを振り返って、“抜擢”真打の心持ちについて語っている。
当時は真打昇進には試験があって、そこに名前が上がったときには叩かれましたよ。テレビにばっかり出ている奴が、とか。親の七光りで、とかね。「てやんでえ」とも思ったけれど、同時に怯えもあったな。きっと落ちるんだろうと思っていたけど、小三治師匠が「あいつの噺はいいよ、オレは推す」って言ってくださったというのを後で知って、ありがたかったですよ。
そして、抜かれた先輩たちが優しかったのには救われたと言う。
ある時、喜多八兄さんに居酒屋へ呼び出されてね。まずは「乾杯」と。そして「俺の贔屓の客に、あのこぶ平に抜かされたんじゃ、しょうがねえ、と言わせてくれ」ってね。だから、もっともっと上手くなってくれ。もっともっと売れてくれ、と。その言葉を頼りにやってこられた。
そして、正蔵師匠がつる子師匠に話す心構えが素晴らしい。
出る釘は打たれる、というように、真打になってこれから、もっと苦しいこともあるでしょう。でも、受け止めなけりゃいけない。打たれるってのは「出ている」ということなんだから。真っ当にやっているとね、今まで遠くで見ていたひとたちが寄ってきて、鼻っ柱を折ってくれる。お客さんからいただくご批判もいいんだけど、慕っている先輩なんかが折りにきてくれるのがいいんだな。芸だけじゃなく心までバキンッと、折ってくれるからね。これが一番の味方だ。
つる子師匠が「女性目線で描いた」とマスコミが取り上げていることについて、正蔵師匠は「つる子の目線」でいいんじゃないかなと言うと、つる子師匠は思いの丈をこう述べている。
落語の中で女性の権限を確立する、ということをやっていきたいのではなくて、噺の中で描ききれていなかった人たちを主人公にして演じていきたい。男性が作ってきた落語の歴史の中で、自然と男性が主人公の噺が多かった。けれども脇役である「芝浜」のおかみさんにも、嘘をつく葛藤や迷いなど、すっきりと語りきれない人間らしさがあるはず。
「紺屋高尾」の高尾が久蔵を惚れるまでには、遊郭の中で遊女同士の、あけすけでリアルな毎日があり、物語があると思うんです。「女性目線」はわかりやすい言葉だったかもしれませんが、最近は、例えば「子別れ」だったら「おかみさん目線」ではなくて「おかみさんを主人公にして」という文言に変えてもらっています。
素晴らしい了見だと思った。最後に正蔵師匠がつる子師匠の優れているところを述べているので、これで締めたい。
つる子は、入門時からもちろん芸は伸びているんだけど、その芯が変わらない。変わるひともいるんだろうけど、つる子は変わっていない。芸人をやっていると、どうかするとスレたり、歪んだり、世慣れたり、いっぱしの風を吹かせたりすることがあるけれど、つる子にはそれが全くない。汚れがない。澄んだ気持ちで、いつも高座を全うしているのがよくわかる。
このままの姿勢で高座に向き合っていく限り、林家つる子の前途は洋々である。