馬石・兼好・文菊三人会 三遊亭兼好「淀五郎」

馬石・兼好・文菊三人会に行きました。隅田川馬石師匠が「千両みかん」、三遊亭兼好師匠が「淀五郎」、古今亭文菊師匠が「木乃伊取り」。開口一番は隅田川わたしさんで「たらちね」だった。

馬石師匠の「千両みかん」。番頭さんが江戸中を駆け回り、やっとの思いで辿り着いた須田町の果物問屋で、一個だけ腐っていない無傷のみかんに出会える。問屋の主人はなぜこのような炎天下にみかんを探していたのか?と番頭さんに理由を訊くと、「命にかけて思ってくれた。ありがたい。では、その若旦那のお見舞いに差し上げましょう」と優しい心遣いをするのが良い。

だが、番頭さんは「ただでは貰えない。手前も商人です」と好意を全面的には受け取らない。すると、問屋主人は「では、商売させてもらいます。千両いただきます。毎年無駄を承知で蔵に蓄えているのは果物問屋の暖簾のようなもの。千両でも高いとは思いませんが」。商人の意地、誇りというものだろう。番頭さんはビックリしたが、旦那は「息子の命が助かると思えば、安いものだ」。モノの値段というのは、色々な人の色々な思いが入り混じって決まる。好きな噺だ。

文菊師匠の「木乃伊取り」。吉原の角海老に居続けしている若旦那を連れ戻す使命を受けた番頭と鳶頭は若旦那に取り込まれてしまった。そのときに名乗りをあげた飯炊きの清蔵の心意気が素敵だ。旦那の「お前はおまんまが焦げるかどうかを見ていれば良い」という考えを、「グーと言えるものなら言ってみろ」と論破する清蔵、見事。女将さんが清蔵に「くれぐれも頼むよ」と巾着を託す母親の情にも感じ入る。

だが、ここからが落語だ。若旦那を連れ戻すと鼻息荒く角海老に乗り込んだ清蔵、一旦は若旦那説得に成功するのだが…。“めでたい酒”を三杯も勧められ、良い気分になると、芸者たちに「怖くないんだよ、おじさんは」と優しい言葉を掛け、かしくに酌をしようとすると「口移しで」と囁かれ、「馬鹿言わないもんだ。真昼間から冗談はよせ」とデレデレになってしまう。「芯のない客、実のない客が多い中、あなたのような堅い方の前に出たいと思っていました」「堅い?この腕なんてカチカチだ。醜かんべ?」「そういう手で私の手をギュッと握っていただきたいんです」「いいのかね?…やめるべ…こりゃあ、帰る方が無理かもしれない」。まさに木乃伊取りが木乃伊になる様子を活写した愉しい高座だった。

兼好師匠の「淀五郎」。シンプルに芸論として優れているのが良い。淀五郎を名題に抜擢した皮肉團蔵演じる由良之助が、花道の七三で淀五郎演じる判官を見て、動けない。「酷い判官だ。まるで駄目だ。俺の目が狂っていたのか。この男ならと思ったが…」。

終演後、淀五郎が團蔵の楽屋を訪ね、「由良助が判官の傍に来ない。ああいう型があるのでしょうか?」と訊く愚直。「判官は五万三千石の大名だ。あれじゃあ、行かれないよ。淀五郎が腹切って遊んでいるんじゃ、行かれない。どこがまずい?良いところがあるから、悪いところがあると言える。全部まずいんだ」。淀五郎が「どのように腹を切ればよいのでしょう?」に対し、「本当に腹を切ればいい」。團蔵は淀五郎に意地悪しているわけでない。自分で「判官の了見」を考えて演じろということなのだろう。

下手な役者は生きていてもしょうがない、明日からは舞台に立てない、本当に腹を切ろう。そう考えた淀五郎は中村座の仲蔵の楽屋に暇乞いに訪ねる。名題昇進を「おめでとう」と言う仲蔵だが、淀五郎の様子が違うのを察して、「何かあったね。話してごらん。力になれると思う」と言って、「花道の一件だね」と優しく訊くのが素敵である。そして、その場で淀五郎に「やってごらん」と促し、演技を見る。そして、言う。

すまないが、私が由良之助でも傍に行かないね。名題になって嬉しいだろう。腹の切りようが「嬉しくてしょうがない」という風になっている。「上手いでしょう?」「褒めてください」と言っているようだ。判官の気持ちになってごらん。馬鹿なことをした。申し訳ない。悔しい。それが、「さあ、淀五郎です。見てください」になっている。その了見を変えなさい。

兼好師匠は了見の持ち方に重点を置いて仲蔵が淀五郎を諭す演出にしている。演技の技術的なことは仲蔵が「やってみせるから見てごらん」の一言で済ましている。それで良いと思った。刀の持ち方や唇に青黛を塗ること等の指導は省略した。一番肝要なのは、淀五郎の心の持ち様なのだから、正解だと思う。

そして、翌日。すっかり淀五郎の判官は変わった。團蔵は「出来た!大したもんだ。堺屋だな。良い判官になった。俺の目に狂いはなかった」。富士の山はたった一晩で出来上がったというが、了見の持ち方ひとつで人間というのは急成長するのだなあ。素晴らしい名人譚である。