五代目柳家小さん二十三回忌追善興行

新宿末廣亭余一会「五代目柳家小さん二十三回忌追善興行 昼夜ぶち抜き柳家花緑独演会スペシャル」に行きました。2002年5月16日に87歳で亡くなった五代目柳家小さん師匠の追善である。

昼の部 「たらちね」入船亭扇ぱい/「狸の鯉」柳家花緑/「粗忽の使者」柳亭市馬/「代書屋」柳家権太楼/「長屋の花見」柳家小さん/中入り/座談会 大野善弘・広瀬和生・花緑/粋曲 柳家小菊/「猫の災難」柳家花緑

座談会。大野善弘さんは小さん師匠のマネージャーだった人。1975年~2002年まで務めたそうだ。形見のジャケットをお召になって登壇された。兎に角、忙しい師匠だったので仕事を整理するのが大変だったと。剣道の講師を毎週火曜、木曜、金曜にあったので「スケジュール調整が難しかった」。剣道のスケジュールを外そうとすると、機嫌が悪くなったそう。レギュラーだった紀伊國屋寄席は剣道を理由に「辞めたい」と言い出し、以来「紀伊國屋寄席は月曜が多くなった」。

広瀬和生さんは中学生の頃からテレビやラジオで小さん師匠の落語には触れていた、大学に入学し、「これでようやく生の落語が聴けるぞ!」と行ったのが、駒場のキャンパスに近かった渋谷の東横落語会。残念ながら、圓生師匠には間に合わず、当時出演していたのが小さん、馬生、志ん朝、談志、円楽、小三治。キラキラしたスターが揃っている中で、小さん師匠は“昭和の名人”として図抜けてオーラが違っていた。演っていることそのものがザ・落語だったと。

一番覚えているのが、1983年6月。談志落語協会脱退直後の回で、小さん芸歴50年ということで鼎談があり、小さん、談志、小三治が上がった。小さんいわく「(談志は)病気みたいなものだから、自由にやればいい。こいつはしょうがない」。すると、談志が「師匠とは気が合うんだよな」。小三治は「小さんという人は何て大きんだ」と感心していたそう。小さん・談志の関係は師弟を超えて、「長短」の友情のようなものがあったのかも。

実際、小さんは談志に対し「破門と言っていない」。「勝手に来なくなった」。ただ、周りの一門の弟子たちやマスコミが騒いで、問題が大きくなっちゃった。何でも「(協会に)籍だけは置いておけ」とも言ったとか。小さん夫人は談志が入門するときに「あんな者、取ったら大変だよ」と言ったそうで、それでも許した小さんの大きさが窺える。大野さんは当初まむしプロダクションで働いていて、談志の口利きで小さんのマネージャーになったそうだ。

小さんの大きさという意味では、落語協会へ貢献も大きい。57歳から81歳まで会長を務めた。それまでは会長の自宅は協会の事務所だったが、ビルを借りて事務局を置いたのも小さんだし、社団法人にしたのも小さんだし、副会長という役職を作ったのも小さんだ。当初はビルの賃貸料まで身銭を切っていたという親分肌。落語協会は今年百周年を迎えたが、現在の土台を築いたのも小さんの功績だ。

今回の興行のために、花緑師匠が手書きの「小さん年表」を作って高座いっぱいに広げて説明していたのも興味深かった。1915年(大正4年)、長野に生まれ、3歳で上京。初めて覚えた落語が「勘定板」だそう。16歳で四谷の寄席喜よしで初めて生の落語に接し、その年、四代目小さんに入門。クリクリした顔ということで、栗之助が前座名。20歳で召集され、21歳で2・26事件に加わったのは有名な話。そのときに「落語をやれ」と命じられ、「子ほめ」を演じたが、「生涯で一番受けなかった」。

24歳で小きんで二ツ目昇進。25歳で志ん生に誘われて、初めて吉原に行ったが、「こんなところは嫌だ」と女性とは枕を交わすことなく帰ったとか。27歳で生代子さんと結婚。高円寺のバーに勤めていた人だそうだが、友人に紹介された噺家の小きんと伊勢丹で食事、いわゆる見合いだが、そのときに素麺を食べ終わった小きんは『この後、寄席の出番がありますので』と言って、サッサと帰ってしまった。これを見た生代子さんは「何て骨のある人なんだ」と惚れてしまい、追っかけをするようになり、結婚に至ったという馴れ初めが何とも小さん師匠らしい。

32歳、小三治で真打昇進。その披露興行千秋楽で師匠の四代目小さんが亡くなる。師匠の遺言もあって、35歳で五代目小さん襲名。これには周囲の反対もあったらしいが、預かった文楽師匠が「ピストルをつきつけられても貫く」覚悟で推挙したという。

57歳で落語協会会長就任。63歳、分裂騒動。このとき、妻の生代子さんを亡くしているが、葬儀委員長を談志が務めている。一旦は圓生側に付いた志ん朝や談志が協会に戻るときに、香盤を下げることをしなかったのも小さんの判断である。65歳で紫綬褒章、72歳でNHK放送文化賞、74歳で浅草芸能大賞、80歳で人間国宝認定。

81歳で脳梗塞で倒れるも、高座復帰。平成14年5月16日逝去。享年八十七。最後の高座は2月2日、鎌倉芸術館で親子三代の落語会における「強情灸」だった。

最後に広瀬さんが言った言葉が印象に残った。落語の世界を飾ることなく楽しませてくれた噺家。落語そのものが面白いと気づかせてくれた噺家。談志や志ん朝はその人のパフォーマンスとして高座を観たが、小さんの高座には「そこに落語があった。温かい気持ちになれる落語だった」。改めてその功績の大きさを思う。

夜の部 「金明竹」金原亭駒平/「花見小僧」柳家花緑/浮世節 立花家橘之助/「五代目小さんを偲んで」立川談春/中入り/座談会 米團治・談春・花緑/「七段目」桂米團治/「三軒長屋」柳家花緑

談春師匠のお話が大変に興味深かった。入門前、テレビの落語研究会を観るとき、志ん朝や小三治が楽しみで、小さんだと「がっかりした」そうだ。だが、入門後にその凄さが判ったという。談志は「小さんで覚えろ。真似て来い」と命じた。だが、真似ができない。真似する余地がない。真似をしようとして高座に上がると全く受けなかった。志ん朝や談志の真似をすると客に「いいね!」と言われた。特徴が掴みきれない。志ん朝の高座は憧れの目で見てしまう、談志の高座はお手本として見てしまう。だが、小さん師匠の高座を観ると、客に戻れる。ゲラゲラ笑ってしまう自分がいる。余りにすごくて真似ができないと。

東横落語会の年末スペシャルで、小朝師匠が上がり、圓楽師匠が「紺屋高尾」を演り、談志師匠が「富久」を演り、志ん朝師匠が「夢金」を演った。そして、トリが小さん師匠。「天災」だった。それまでの演者全員を食っちゃった。14歳の少年は、「すげぇーなー、落語というのはこういうものか。こんなに元気になれるのか」と感心したという。

談志事務所の企画で小さん独演会を開いた。花緑、志らく、談春が上がった。志らくは爆笑の「文七元結」(笑)。小さんが「受けているな。子ほめでも演っているのか?」と言った。尺も20分。高田文夫先生いわく「大相撲ダイジェスト」。小さんは「お前、面白いな。談志に似ているな」と言って、祝儀を切ったそうだ。続いて談春は「たらちね」を丁寧に演じた。すると、小さんは「こいつ、長いな。鰍沢でも演っているのか?」。「たらちね」と聞いて、エ!?とビックリして、「お前ら、面白いな」。

自分の真打披露に小さん師匠に出演をして頂いた。当日、「よろしくお願いします」と挨拶に行ったら、「何、演るんだ?」。「蒟蒻問答」です、と答えたら、「稽古をつけてやる」。40分もかけて丁寧に、仕草のところを噛んで含めるように教えてくれ、もう1回演ってくれた。泣きそうになった。この教え方は「談志と一緒」だと思った。談志のやり方は、小さんのやり方だったんだと気づいた。伝統というのはこういうことなのかと知らされたと。

談志は小さんの十八番を演らなかった。それは志の輔師匠が談志十八番を避けているのと同じ考え方なのかもしれない。ただ、談志の最期の演目を見ると、「長屋の花見」「蜘蛛駕籠」。モノの見事に小さん十八番である。「一年、一年、歳を取るごとに小さんの凄さがわかる」と談春師匠は締め括った。

最後に、花緑師匠が小さん師匠に怒られた思い出。一緒の落語会で花緑師匠は「時そば」を演じた。この高座に「腹が立った」と小さん師匠が小言を言ったのだった。地方では受けているネタだったが、「それで良いと思っているのか。花緑が蕎麦を食べている。あのやり方じゃダメだ」。落語の登場人物が食べているように演じなくてはいけない。演者の存在を消して演じなければいけない。これは五代目小さんの大切にしていた落語観だと思った。