兼好 人形町噺し問屋、そして一龍斎貞心「次郎長と伯山」

「人形町噺し問屋~三遊亭兼好独演会」に行きました。「芋俵」と「花見の仇討」の二席。開口一番は三遊亭げんきさんで「味噌豆」、それに続いて三遊亭けろよんさんが「浮世床~本」、ゲストは紙切りの林家喜之輔さんだった。

「花見の仇討」。八代将軍の吉宗は江戸の町人たちに心の余裕を与えるために花見の名所をいくつも作ったそうだ。そして、心から楽しんでもらうため、武士にはなるべく立ち入らないようにしたという。

花見の趣向で“巡礼兄弟の仇討”芝居をやろうと建具屋の半ちゃんが提案し、それに金ちゃん、清ちゃん、吉っちゃんが乗っかる。半ちゃんが仇の浪人、金ちゃん清ちゃんが巡礼兄弟、吉っちゃんが六十六部。「卒爾ながら火をひとつ、御貸しくだされ…」からの芝居台詞の稽古、浪花節になっちゃったり、百人一首の札読み風になっちゃったりするのが可笑しかった。

吉っちゃんが六十六部の格好で歩いているところを、御徒町で本所の叔父さんに見つかり、「相模から四国へ」回国するのか!と勘違いされるところ。叔母さんに助けてもらおうとするが、二人とも耳が遠くて埒が明かないには笑った。

上野の擂鉢山のてっぺんの切り株に腰掛けて、巡礼兄弟を待っている浪人役の半ちゃん、二人が来るのが遅くて、煙草を吸い過ぎて、喉がいがらっぽくなるばかりか、煙草の吸殻が山のようになっているという情景を思い浮かべるだけでも面白かった。

上野広小路亭の講談協会三月定席に行きました。

「真柄のお秀」一龍斎貞司/「誰か故郷を想わざる」田辺銀冶/「木村長門守の堪忍袋」宝井梅福/中入り/「鉢かづき姫」神田あおい/「次郎長と伯山」一龍斎貞心

貞司さん、二ツ目昇進おめでとうございます。真柄刑部に対する、お秀の熱烈なラブコールをユーモラスに読んで、面白かった。旅先での「夫婦約束」が刑部にとっては戯言に過ぎなかったのかもしれないが、お秀は真剣に受け取ったのだから、逃げることなど出来ない。刑部の上司である朝倉弾正が鷹狩に行くところを待ち伏せて、殿様に直談判する情熱の勝利。弾正が媒酌人となって、妻に納まったお秀は朗らかで、愛情深く、働き者、非の打ち所がない。生まれた男の子は後に“越前の鬼”と渾名される真柄十郎左衛門。豪傑誕生は男顔負けの怪力の持ち主、お秀が母だったからという…。大変ハッピーな読み物である。

あおい先生。ファンタジーの世界観も、こうして講談で読むと凄い説得力があるなあと感心した。藤原実高と照見の方の間に産まれた女の子、初瀬姫。長谷観音のお告げによって、大きな鉢を頭に被せられるが、これも病弱だった母が娘に幸せになってほしいという願いからだったのに、母が病死した後、実高とその後妻によって苛められ、初瀬姫は身を投げてしまう…。

それを山陰三位中将が助け、その四男の在平と初瀬姫が恋仲になるのが良い。在平いわく「見た目ではなく、心根に惚れた。妻にしたい」。この結婚に反対する兄嫁たちは“嫁くらべ”をしようと言い出す。困った在平と初瀬姫は逃げ出そうとしたとき、月夜に照らされて、初瀬姫の頭の鉢が二つに割れて、そこから金銀財宝が出てくる…。そして、初瀬姫は誰にも負けない美貌の持ち主だった!これも長谷観音のお導き。「真柄のお秀」もそうだが、人を見た目で判断してはいけませんよ、という教訓がこめられていて、好きだなあ。

貞心先生。タイトルは「次郎長と伯山」だが、旅回りの講釈師だった松廼家京伝の気持ちになって聴くとグッとくる。清水次郎長が自分の60歳までの半生を内外新報の新聞記者だった天田太郎が綴った「東海遊侠伝」を基に、「飯のタネにしてくれ」と懇意にしていた京伝に講談化を許した熱い思い。

京伝は有難いと思ったが、まだ完成する前に次郎長は明治26年に亡くなってしまった。ようやく出来た講談を東京の端席で掛けたが、面白くない、受けない。自分は寄席の下足番に成り下がって、この思いを実現してくれる有能な若い講釈師に託そうと思う。それが二代目神田伯山の弟子で当時売り出し中だった小伯山だ。京伝は「東海遊侠伝」と自分が作った点取り(台本)を譲る。これを読んだ小伯山は「これは面白い話が出来る!」と喜び、京伝を近所に住まわせて、聞き取りを進めた。

小伯山は33歳のとき、師匠伯山が松鯉を名乗り隠居、自分が三代目伯山を襲名した。そのとき、京伝はお詫びの書置きを残して姿を消してしまった。伯山は8年の歳月をかけて、“森の石松”などの架空の人物を創作するなど工夫を重ね、次郎長伝を完成させた。明治41年「名も高き富士の山本」というタイトルで講談を読み始めると、「面白い!」と噂が広がり、評判をとる。誰となく「清水次郎長伝」と呼ぶようになり、それが正式演目名になった。

次郎長の十七回忌。伯山は弟子たちを連れて法事に参列した。その帰り、熱海で宿を取った。すると、弟子からの情報で「松廼家京伝がこの熱海で梅屋という温泉旅館の風呂番をしている」と知る。すぐに再会。「京伝さんに聴いてもらう約束だった」と言い、梅屋で三日間、客を集めて次郎長伝を読む興行を打つ。大勢の客の隅で聴いていた京伝は「畏れ入りました。あんな面白い講釈になるとは。あの世で安心して次郎長親分に会えます」。そのときに京伝が言った「馬鹿は死ななきゃ治らない」という台詞に対し、伯山は「またお前さんにネタを教わった」。

半年後。神田小柳亭の楽屋に梅屋の使いの者が訪ね、伯山は京伝の死を知る。「気の毒なことをした…」。伯山は高座に上がると、客席はギッシリと埋まっている。そして、一番後ろに浴衣姿の京伝が…。生前、京伝は言っていた。「先生、あっしが死んだら、幽霊になってでもお客を呼び込みますよ」。その言葉を伯山は思い出して、「清水港に過ぎたるものが…」と次郎長伝を読み始めた。

伯山の次郎長か、次郎長の伯山か。八丁荒らしと渾名された三代目伯山の名前が今もこうして語り継がれているのは、松廼家京伝がいたからこそなのだろう。