歌舞伎「御浜御殿綱豊卿」、そして春風亭昇羊「心眼」

三月大歌舞伎昼の部に行きました。「菅原伝授手習鑑 寺子屋」「傾城道成寺」「元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿」の三演目。

「御浜御殿綱豊卿」。片岡仁左衛門演じる徳川綱豊卿の風格。松本幸四郎演じる富森助右衛門の熱情。「御浜御殿元の御座の間」における、この両者のぶつかり合いが見どころだ。

綱豊は浅野家再興を成就させるよりも、大石内蔵助たち赤穂浪士に仇討を遂げさせ、亡君の無念を晴らす方が、朝廷の意にも適うと考えている。そこで、助右衛門に盃を受けさせ、自分に仕える気はないかと尋ねる。頑なにこれを断る助右衛門に対し、大石のことをわざと罵り始め、仇討の心があるのかを推量しようとする駆け引きが興味深い。

助右衛門は「浪士を束ねる大石が遊興に耽っていては、浪士の一味はすでに箍の外れた桶同然」と綱豊の追及をかわそうとするが、綱豊は赤穂浪士の忠義を信じていると伝えた上で、「大石の放蕩は仇討の本心を隠すためであろう」と問い詰める。

これに対し、助右衛門は「大石の放蕩が本心を隠す方策ならば、綱豊が遊興に耽るのも六代将軍の職を望むゆえ、わざと作り阿呆の真似をしているのではないか」と問い返す。それを聞いた綱豊は怒りを覚えた様子を見せ、綱豊の寵愛を受ける中臈で助右衛門の妹であるお喜世が堪りかねて懐剣に手をかけ、助右衛門に打ち掛かろうとする…。

しかし、綱豊はお喜世を止め、助右衛門に思うところを述べよと命じる。すると助右衛門は「綱豊の放蕩は将軍の猜疑心を避けるための方便であろうし、大石の放埓も同様だと考えるが、自分には本当のことは判らない」と申し述べる。

綱豊の鷹揚ながらも討ち入り成就を願う心理と推理。助右衛門の浪人の身でありながらも気骨ある人柄。この対照が際立って面白い。

そして、「御浜御殿能舞台の背面」。夜も更け、能舞台の裏手で槍を携えた助右衛門が忍び入り、そこに舞台の拵えをした人物が現れると、これを仇の吉良上野介と見定め、突き掛かると、相手は綱豊だった。このときに綱豊が助右衛門の不心得を厳しく叱責するところはクライマックスだ。ただ仇の吉良を殺せばいいというものではない。本当の忠義、立派な復讐とは何か。綱豊が丁寧に諭す言葉が心に沁み入った。

夜は高田馬場に移動して、「ひつじのばば~春風亭昇羊ネタだし落語会」に行きました。「権助提灯」「野ざらし」「心眼」の三席。

「心眼」。横浜から帰ってきた梅喜の様子を見て、女房のお竹が「また弟の金さんにドメクラと悪口を浴びせられてきたのだろう」と察するところが良いと思った。普段からそういうことが何度かあったのだろう。だが、今回ばかりは今までとは違う梅喜の怒りだ。「ドメクラがまた食い潰しに来やがったと言うんだ。俺のことを何だと思っているんだ。親代わりに育てた恩を忘れやがって。よっぽど、首を括って死んでやろうと思ったが…お竹が悲しい思いをするといけないと思って、踏みとどまった」。夫婦の情愛が感じられた。

茅場町のお薬師様に信心しようと決意して、三七二十一日の満願当日。願いは叶わないと思ったときの梅喜の気持ち。「私の目は明かないんですね。いっそのこと、殺してください。生きていてもしょうがない。殺しやがれ、畜生!」。これを聞いた上総屋が声を掛けると、何と目が明いているではないか。嬉しいどころの騒ぎじゃない。この喜怒哀楽の表現が良い。

そして、慢心。人間という生き物はどうして心の隙が出来てしまうのか。人力車に乗った芸者と自分の女房のお竹はどっちが器量が良いか?思わず上総屋に訊いてしまう。昇羊さんが良かったのは、上総屋の答えだ。「芸者の方がいい女だ。だけど、お竹さんは江戸中で一番いい人だ。器量は良くないかもしれないが、心根が良い。人は見目より心だよ」。この噺では「よくニン3バケ7というけれど、お竹さんはニン無しバケ10だ」と言ったり、「あの女乞食とお竹はどっちがいい女ですか?」と訊いたりする部分があるが、それを全面カットしているのが素晴らしい。

芸者の小春の告白。「目が明いたから言うのではないけれど、梅喜さんに以前から惚れていたんです。本気で言っているのよ」。梅喜が喜ぶ気持ちはよく判る。「嬉しい。本気にしちゃいますよ」。でも、この後がいけない。小春が「でも、梅喜さんにはおかみさんがいるから。つまらない」と言うと、梅喜は「いいんですよ、あの女のことは。器量が良くないんでしょ。あなたと一緒になれるなら、あんな女、うっちゃっちゃう。叩き出します」。本当に人間は弱い生き物だなあと思う。

そして、お竹が座敷に乗り込んで来て、梅喜の首を絞める…。だが、それは夢だった。「随分、うなされていたわよ。悪い夢でも見ていたの?」と訊くお竹に対し、梅喜は「信心はよすわ。盲目(めくら)なんてのは不思議だ。寝ているときだけ、よく見えらあ」。

たとえ盲目でも、お竹という甲斐甲斐しい女房と暮らすことができることは何て幸せなことなんだ。そう気づいたからこそ、梅喜は「よく見える」と言ったのだと思った。