KERA CROSS 5「骨と軽蔑」、そして五十の手習 古今亭菊之丞「今戸の狐」

KERA CROSS 5「骨と軽蔑」を観ました。ケラリーノ・サンドロヴィッチ(KERA)さんの過去戯曲を他の才気溢れる演出家たちが異なる味わいで新たに創り上げる連続シリーズ「KERA CROSS」はこれまで4回上演されてきた。①2019年「フローズン・ビーチ」(演出:鈴木裕美 98年初演)②2020年「グッドバイ」(演出:生瀬勝久 15年初演)③2021年「カメレオンズ・リップ」(演出:河原雅彦 04年初演)④2022年「SLAPSTICKS」(演出:三浦直之 93年初演)。今回はシリーズラストということで、KERAさん自身が新作・演出を手掛けた。

KERAさんの世界は多種多様だ。シリアスな不条理劇あり、ウェルメイド劇あり、シニカルさを漂わせたナンセンス・コメディあり、シチュエーション・コメディあり。また、映画へのオマージュに満ちたものや評伝劇、さらにカフカ、岸田國士、別役実など文学作品を自由にシュールなイメージで描き出したもの、など振り幅の広い多彩な作品群を紡ぎ出している。(プログラム「みなぎるKERAの魅力」河野孝より)

今回のチラシのボディコピーは「手練れの女優7人と一緒に辛辣なコメディを作ってみたい。会話劇だ。会話、会話、会話。今は一応コメディと呼んでおくけど、作品を占める笑いは苦味の強いものばかりになるかもしれない」。宮沢りえ、鈴木杏、犬山イヌコ、堀内敬子、水川あさみ、峯村リエ、小池栄子。出演はこの7人のみだ。「今回は派手な仕掛けは使わないつもり。彼女たちの芝居が仕掛けだ」とある。世界の外側に男性と戦争が置かれ、縦軸がしっかりと据えられた上で、7人の女性によって不条理喜劇的、ときにシリアスな人間ドラマのようでありながら、実は空想物語…色々な世界がない混ぜになった戯曲は、会話の展開のさせ方、構成自体に“ギミックを多用”している。

僕がこの芝居の中で「すごい!」と思ったシーンについて、プログラムの中でKERAさんが語っているので引用する。

ラジオのアナウンサーの話に向かってグルカ(峯村リエ)が反論して、ラジオを叩く場面。ラジオの中の人間が痛がりますよね。それに対してマーゴ(宮沢りえ)が「やめなさいよ、痛がってるじゃないの…」と、当たり前の世界として受け入れる。あそこは好きですね。書いててもニヤついていた。(以上、抜粋)

「どんな世界観の話にするか」を決めていても、書き進めていくうちに、リアリズムの世界の中に突然ファンタジックなことを起こしてみるなど、寓話を描いているような感覚になることがあるという。リアリズムの配分という意味では、これまでも色々な作品であらゆる調合を試しながら書いている、最初からファンタジックに始まる作品もあれば、散文的に始まってポエティックになっていく作品を書いたこともある…。この「予測のつかなさ」をどこか自分自身が楽しんでもいて、意図せぬおとぎ話的な展開を、登場人物たちがどう捉えていくか、書き進めながら考えているという。

それこそが、還暦を超えても創造力に衰えなく、みずみずしい感覚の作品を提供しているKERAさんの最大の魅力なのだなあと思った。

夜は高田馬場に移動して「五十の手習~古今亭菊之丞勉強会」に行きました。「今戸の狐」と「百年目」の二席。開口一番は金原亭駒平さんで「新聞記事」だった。

「今戸の狐」。符牒の取り違いが意外なところで展開する面白さがこの噺の肝だから、予め幾つかの符牒の説明を仕込んでおく必要があり、それを億劫に思って演り手が少ないのだろうが、それをスマートにこなせば、実りの多い噺だと個人的に思う。菊之丞師匠はスマートに仕込んでいて、ネタ卸しとは思えない良い出来だったと思う。

博奕には賽子を1つ使うチョボイチ、2つ使う丁半、3つ使うキツネがあるということや、賽子も素人は泥で出来たものを使うが、博奕打ちは象牙、もしくは鹿の骨で出来たものを使い、“骨(コツ)の賽(サイ)”と呼んだこと。噺家の前座は昔は寄席を無給で働いたから、小遣い稼ぎに中入りなどで客に籤を売っていたことなどを仕込む。

初代三笑亭可楽師匠の自宅の二階で前座たちがその日の籤の売り上げを勘定するチャリンチャリンという音がしているのを町内のゴロツキが聞いて、「博奕をやっているな…。強請れば金になる」と思い込んだ。翌朝、可楽宅を訪ね、「ちょいと、キツネをやっているんでしょ?ネタはあがっているんだ」と凄むも、可楽師匠に「博奕は大嫌い。弟子も博奕をしたら破門にする」とけんもほろろに追い返されてしまう。

諦めきれないゴロツキに弟子の乃楽が「キツネを探しているんですか?だったら、ここじゃない。橋場に住む良助兄さんのところでやっている」と教えてしまう…。ゴロツキが良助に「キツネをやっているな」と強請ると、今戸焼の狐の彩色の内職が見つかったと勘違いした良助は「生活に困って…」「近頃顔が揃うようになりました」「大きいのから、小さいの、金張り、銀張りと色々あります」「できているのは戸棚の中…」。ゴロツキと良助の噛み合っているようで、まるで噛み合っていない会話の妙が実に可笑しい。

僕が個人的に残念だと思ったのは、サゲの「俺の言っているのは骨(コツ)の賽(サイ)だよ」「ああ、千住(コツ)の妻(サイ)はお向かいです」のための仕込み。良助の向かいに住む小間物屋の善さんが千住の女郎を女房に貰ったら、この女房が働き者で近所から「千住(コツ)の妻(サイ)」と渾名され、評判だったということだけ「説明」していた。

普通は良助がこのおかみさんに「私も狐の彩色の内職をやりたいから教えてほしい」と頼まれて、同じ内職をやっているという関係性が描かれる。志ん生師匠も、志ん朝師匠もその型だ。また、白酒師匠は逆でおかみさんから良助が習うという演出にしている。兎に角、良助と千住(コツ)の妻(サイ)の絡みがあるとないのでは随分と噺の印象が違う。「説明ばかりの噺」にしないためにも、この部分は省かない方が良いと思った。