立川談春独演会「お若伊之助」、そして国際女性デー落語会 桂二葉×上野千鶴子

立川談春独演会に行きました。芸歴40周年を記念した20公演シリーズの第5回である。きょうは「鰻の幇間」と「お若伊之助」の二席だった。

「お若伊之助」、また新しい息吹が吹き込まれた。捉えようによっては救いようのない後味の悪い噺だが、談春師匠の再構築によって「なるほど!」と膝を打つような終わり方となり、とても良い演出の噺に仕上がったように思う。拍手喝采である。

まず、冒頭のシーンが素敵だ。根岸にある剣術指南役の長尾一角の道場の庭にある一本の桜が満開を迎えている。日の暮れ、十六、七の美しいけれど病んだ女性が柱にもたれかかりながら、その桜を見ている。すると、その女性の顔色に赤みが差して、「お前は伊之さん!」と声をあげ、庭の隅に現れた様子のいい男を見て滂沱の涙を流した。そして、「夜が更けたら、四ツの鐘を合図に来てください」と言う。以来、逢引が毎夜続いた。その女性こそ、江戸で一番という日本橋の生薬屋、栄屋のひとり娘、お若である。なぜ、お若はこの根岸の里に預けられたのか?という謎解きから物語がはじまるのだ。

長尾一角がに組の初五郎を呼び出す。初五郎はお若に一中節を教える師匠、菅野伊之助を仲介した。だが、お若と伊之助が割りない仲になってしまったことに、お若の母親が気づき、「30両の手切れ金を渡すから二度と足を向けないでくれ」と頼んだ。その30両は確かに伊之助の手元に渡っているのか?という確認を一角は初五郎にしたのだ。

一角によれば、伊之助がお若の許に毎夜通って逢引しているという。昨夜も現れ、斬ってくれようと思ったが、初五郎に確かめてからにしようと呼び出したのだ。お若はただの身体ではなく、懐妊しており、伊之助の種を宿しているという。寝耳に水の初五郎はそのようなことが本当なら、伊之助の腕の一本や二本へし折って、そっ首を引っこ抜いてくると息巻く。

根岸から伊之助の住む両国まで、初五郎は全速力で向かう。伊之助は元は侍、それが一中節の芸人となり、面倒を見てくださいと初五郎に頼んだ関係。栄屋の女将は「大事な跡取り娘。男は嫌だ」と言うのを、「元は侍、一本筋が通っている」と説き伏せて、お若に一中節を教える段取りをした。それが“余計な稽古”をして、女将から何も言わずに30両を手切れ金として渡された。何より可哀想なのは、お嬢さんだ。根岸の里に預けられて、具合が悪くなってしまった。「それなのに、何でお前は根岸に行くんだ!栄屋の女将さんに何と弁解すればいいんだ?」と伊之助を問い詰める。

だが、伊之助は狐につままれた思いだ。「私はお若さんに会っていません。どこに住んでいるかも知りませんでした。いつのことですか?昨夜?…それはおかしい。私は親方と吉原の角海老に行って、一緒にいたじゃないですか」。

初五郎、ハッと気づき、今度は両国から根岸へ全速力で引き返す。「伊之は昨夜、こちらには伺っていません。来られるわけがない。人違いです」と言って、一角に昨夜のことを話す。すると一角は、「角海老のような格式のある店が芸人を客に取るのか?伊之助はどこに泊まったのだ?」「大門の手前の茶屋です」「吉原と根岸は駕籠で煙草二服もすれば着く距離だ。お若と逢瀬を楽しんで、朝に戻ってこられるだろう。いっぱい、食わされたな」。

またしても、初五郎は両国の伊之助の許へ。「疑いは晴れたんじゃないですか?」と問う伊之助に、初五郎は一角に言われたことを話すと、「昨夜は違います。お前に話したいことがあると言って、夜も寝ずに二人で座敷にずっといて、親方の愚痴を聞いていたじゃないですか。根岸なんか行けません」。

初五郎、根岸へ。「伊之じゃありません」。事情を説明すると、一角は「今晩、ここに泊まってくれ。今晩も必ず、その男は来る。伊之助かどうか、確かめてもらいたい」。夜更け。四ツの鐘が鳴ると、庭から外に人の気配。切り戸が開いた。「来たな!」。障子に灯が照らされ、人影が二つ。中の男を初五郎に確認させる。「伊之助です!」「本当だな?間違えると取返しがつかないことになるぞ」。そう言って、一角は種子島を取り出し、狙いを定め、鉛玉は“伊之助”の背中から胸を貫いた。お若は気絶して倒れている。死骸を検める。

地面が揺れた。地震か?そうではなかった。庭の桜の木が幹ごと揺れている。何かを嘲笑うか、苦しんでいるかのように。そして、桜の花びらが“伊之助”の死骸を包む。「人ではない。狸だ」「やはり、そうであったか。何にせよ、めでたいな。伊之助ではなくて」。お若が伊之助を余りに慕うので、たぶらかしに来たのだ。桜は妖(あやかし)と申す。狸を操ったのだ。木も生きている。お若の一途な気持ちに桜が何かを感じたのかもしれない。

桜の木を引き抜き、その穴に狸の死骸を燃やして埋めた。他言無用にしたはずなのに、この評判は江戸中に知れわたった。可哀想なのはお若である。日本橋に戻ったが、奥へ閉じこもり、瘦せ細ってしまった。

これを聞いた伊之助が「お若さんを私にください。夫婦になるのです」と言ってきた。芸人と大店の娘、所詮は結ばれない間柄だが、狸が結びの神となってくれた。ありがたいことだ。後ろ指差されてもいい、お願いしますと。これを聞いたお若は涙をボロボロと零し、傍にいた伊之助ににじり寄って、手を握った。「もう一回、生きよう」。

住まいに根岸を選び、狸のところへ墓参りした。やがて、お若は狸の子を産み落としたが、死産だった。これも何かの縁と、親狸の墓に埋葬したという。伊之助とお若が一緒になり、人生をやり直すストーリーに感動した。

夜は築地市場に移動して、国際女性デー落語会2024「百花繚乱 桂二葉独演会」に行きました。「仔猫」と「つる」の二席。開口一番は笑福亭ちづ光さんで「初天神」、二ツ目は鈴々舎美馬さんで「ナースコール」、ゲストは社会学者の上野千鶴子さんだった。

桂二葉さんと上野千鶴子さんの対談が興味深い内容だった。まず、「仔猫」の主人公のおなべを「不細工」と描写する必要があるのか?という問題提起を二葉さん自らがした。上野さんは「今の社会ではアウトですね」。その古典が出来たときにはOKだったとしても、現代に照らし合わせるとアウトなものが山ほどあると二葉さんも言う。だから、おなべを「不細工」と表現するとき、自分の中では心がざわざわしていると。噺の構成上、不細工である必要もないと。

上野さんは「仕事ができる…美人ではない、がセットになっている」と指摘し、「麻生さんが女性の外務大臣について発言したのと同じですよね」。二葉さんは、「この噺の中で、男の人たちがごちゃごちゃ言っているだけで、おなべは本当は不細工じゃなかったのかも…」と。

おなべが猫を食らう癖があることを知ったが、人までを食らうのではないと判り、おなべを店から追い出そうとしていた旦那の考え方を保留する意味で、番頭に「考えるわ」と言わせている。これは師匠の桂米二さんが付け加えた台詞だそうで、「あの一言で救われる」と二葉さんは言っていた。だけど、落語というのはお客に頭の中で想像してもらう芸だから、あんまり言い過ぎると面白くなくなってしまう、だからこれ以上は付け加えないという二葉さんの考え方も素晴らしいと思った。

「縫い、針、茶、花、女一通り」という表現で、二葉さんは「女一通り」の部分だけ言わないようにしているというのにも感心した。上野さんが「男にも必要ですよね」と加えたら?と言ったら、二葉さんは「それは噺を一旦降りることになる。物語の空気を乱したくない」と発言していた。よく考えている。

遊郭について、上野さんは「近く、東京藝術大学で大吉原展が開かれるそう」と問題提起をしたら、二葉さんは「廓噺は演らないようにしている」と。それも思い切った考えで二葉さんらしい。上野さんもはとバスの観光コースに吉原があったのは問題で、それを擁護する人は「吉原は日本の伝統」と言っていたが、それはいかがなものかとおっしゃっていた。なるほど。

二葉さんは落語で「阿呆を演じたい」と思っている。それは子どもの頃からの願望だったそうだ。上野さんいわく、「阿呆になる=自分を一段低める」というのが女性には出来ないから、女は芸人になれないという固定観念があったが、二葉さんはそれを打ち破っているのがすごいと評価していたのにも注目した。

二葉さんが「国際女性デー(3月8日)は必要ですか?」と上野さんに投げかけた。上野さんいわく、「それ以外の364日は日本男性デーだから。1日くらい女がデカイ顔する日があってもいいんじゃないか」と。二葉さんは小学生のときに母親に母の日に花をプレゼントしたら、「世間の決めた日だけ、感謝するのは疑問だ!」と言われた経験があったからだそうで、上野さんは「この親にして、この子ありですね。365日、女性デーだといいですね」と。

二葉さんが落語界の師弟制度、「師匠は絶対、我慢が美学」みたいなものは、どうしたら変わるのか?と上野さんに悩みを打ち明けた。上野さんは、二葉さんに弟子が入ったらどうします?と逆に問いかけ、二葉さんは「のびのび育てたい」と答えると、「師匠の家の掃除とか、付人とか、やらせますか?」。

あなたが師匠から学んだやり方で、良いところは残して、嫌だったところはストップをかける、それで変わるんじゃないかな?と。嫌なところも「伝統」にしてきたから変わらないのだと。落語をやりたい人を育てること、そして落語が好きなファンを育てること、この二つがないと「伝統」は続かないという言葉が印象的だった。