講談 伝承の会

「講談 伝承の会」に行きました。この公演は“伝承”を目的に、講談協会の主催により、東西の若手、中堅講談師(受講生)と講談師(講師)を結び、1年間の稽古を経て、その成果を披瀝する発表会形式の会だ。3日間で30人の受講生が発表する。きのう(6日)が初日で、僕は二日目のきょう、伺った。10時30分から3回の休憩を挟んで、18時まで。10人の受講生が各々30分ずつ、また最後には講師の先生3人の高座もあり、都合13席を聴くという…体力勝負の会だ。

「伊達政宗の堪忍袋」旭堂南鈴/「文化白浪 鋳掛松」田辺凌天/「紀伊国屋文左衛門 蜜柑船」神田紅佳/「吉原百人斬り お紺殺し」神田山緑/休憩/「沖田総司の恋」神田こなぎ/「陽明門の間違い」旭堂南斗/「難波戦記 木村重成の最期」神田蘭/休憩/「佐倉義民伝 甚兵衛渡し」宝井琴鶴/「夜もすがら検校」旭堂南湖/「清水次郎長伝 興津河原の間違い」一龍斎貞寿/休憩/「幸助餅」旭堂南鱗/「福沢諭吉」宝井琴星/「寛永三馬術 出世の春駒」神田松鯉

凌天さん。鋳掛屋の松右衛門の息子、松五郎が岩城升屋という呉服屋に奉公に出るが、“目から鼻に抜けて”利口過ぎて使い切れないと暇を出されるエピソードが良い。お遣いに出た帰りに泥棒に縮緬の見本の入った風呂敷包みを奪われそうになるが、「それよりも店の50両を盗んだ方が、楽に儲けられるよ」と言って、屋台で寿司を奢らせ、店の前で待たせておいて知らんぷりした挙句、痺れを切らした泥棒が店を訪ねると「泥棒だ!」と言って追い返してしまう知恵、大人顔負けだ。

親の跡を継いで鋳掛屋になった松五郎が25歳のときの両国橋における心象風景も良い。暑い盛り、枝豆を売る母親に子どもが「素足で歩くと熱いから、草履を買ってほしい」とねだっているのを見かねて、金を恵んでやる。その一方で橋の下では屋形船で商人が三味線と太鼓で芸者をあげてどんちゃん騒ぎしている。「世の中というのはままならない」。松五郎は「細く長く生きるよりも、太く短く生きよう」と、悪党の道に入ることを決意するという…。悲哀を感じる。

紅佳さん。父親が亡くなり、16歳で廻船問屋の紀伊国屋文左衛門を継いだ息子。紀州で蜜柑が豊作なのに、海が荒れた天候が続き、江戸へ売りに出せないことに目を付けた一発勝負。女房おさだの父、藤浪河内に話をして、千両用立てて貰い、蜜柑問屋を口説いて一匁一分で2万8千3百籠の蜜柑を買い取る。その上で、船頭の千八をはじめとする6人の船乗りに片道50両、手付けで25両の話を持ち掛け、商談成立。ハイリスクハイリターンではあるが、目先の利く商売の勘、そして交渉術の上手さで、莫大な利益をあげるサクセスストーリーに聴き惚れた。

山緑先生。今では紀州田辺のお大尽に出世した治右衛門が、大坂からの帰り道で出会った女乞食。それは18年前に元宗右衛門町の芸者で、天満の長屋住まいの時代に女房に迎えたお紺だった…。病を患って醜くなったお紺を見捨て、逃げた治右衛門だったが、「あれは医者代、薬代を工面するために大和、伊勢、桑名と知り合いを訪ねていた」ためで、「家に帰ったら、貸し家札が貼ってあった」と言い訳する。そして、「これからは、田辺の家に帰って、一緒に住もう」と優しい言葉を掛けるが、それは全くの口から出まかせだった。

川で手を洗うお紺の背中を押して突き落とし、杭で打ちのめす。「倅の嫁のなり手がなくなる。成仏してくれ」。酷い仕打ちである。慌てて井筒屋に逃げると、主人が「後ろにお女中さんがいますよ」。酒を飲んで寝ようとするが、寝付けない。行燈の灯の方向にお紺の姿が映し出され、恨めし気に治右衛門を見ている。「化けたのか」「よくもわらわをこのような目に遭わせたな。恨みがあるものか、ないものか。取り殺してみせましょう」。治右衛門は発狂し、舌を噛み切って、死んでしまった…。照明も落として、怖ろしさ倍増の怪談だった。

南斗さん。甚五郎の評判が良くて、嫉妬する栗原遠々江の了見の狭さを思う。一番弟子の滝五郎は、「首を取って来い!」と命じられ、苦渋の選択をした。即ち、甚五郎の右腕を斬り、その上で遠々江の左腕を斬る。親方に対する義理を果たしたが、甚五郎に対する義理が残っている。だから今度は親方の片腕を頂いたというわけだ。

さらに、その上で滝五郎は腹を切って自害する。「お互い親しくやってください」という言葉を遺して。さすがの遠々江もこれには従わずにはいられない。甚五郎の弟分ということで、兄弟分の盃を交わしたという…。滝五郎の忠義のすごさ、“大工の鑑”と言われただけのことはある。

蘭先生。まず、木村重成と青柳(後にきぬ)の馴れ初めの歌のやりとりが素敵だ。青柳の「恋詫びて絶ゆる命はさもあらばあれ さても哀れと問う人もがな」に対し、重成の返歌は「冬枯れの柳は人の心をも 春待ちてこそ結びこそすれ」。

大坂冬の陣、重成の門出にお互い「幸せであった」。心残りはないと言えば、偽りになる。たった一つの心残りはきぬのこと。だが、重成出陣の前にきぬは自ら喉を突いて自害した。そして、そこには蘭奢待の香りが漂っていた。「三途の川は共に手を取り渡ろう。それまで待っていてくれ」という重成の言葉が心に響く。

重成の首実検は兜をかぶったままの首であった。そこには「二度と生きては戻らぬ」という重成の覚悟が見える。兜を取ると、蘭奢待の馥郁たる香りがたちこめ、家康方の家来たちは「女々しい」と笑ったが、それを家康は一喝し、涙したという場面がとても印象に残る読み物である。

琴鶴先生。印旛沼埋め立て費用がかさみ、年貢の取り立てが厳しくなり、住民の生活苦を見るに見かねた木内惣五郎の勇気ある行動。ご法度とされた将軍への直訴を決意し、一目妻と子供に会いたいと思い、佐倉の地に戻った惣五郎の胸中を思うと心が痛む。

妻おりんとの再会。母が書置きを遺して仏壇の前で立派な最期を遂げたことを聞く。そして、将軍直訴の決意を告げて、用意した離縁状をおりんに渡したとき、おりんは「無用の品です」と言って、ビリビリと破り、囲炉裏に放って燃やした行動に感涙する。寝ていた3人の子どもが起き出し、「ととさま!」とすがるのを振り捨てて、後ろ髪ひかれる思いで家を出ていく惣五郎の辛さに思いを馳せる。

旧知の仲であった渡し守の甚兵衛の協力もあって、女房子との最後の別れも実現したわけだが、佐倉の民3万人のために尽力する惣五郎に対する甚兵衛の働きにも心を奪われる。惣五郎を見つけた目明しの喜右衛門と揉み合う中、背後から丸太で喜右衛門を襲い、息絶えさせた甚兵衛。だが、江戸へ向かう惣五郎を見送った後、「役人殺しは大罪」と自らの命を絶ってしまう。佐倉のヒーローである惣五郎の影に何人もの立役者がいることを忘れてはいけない。

南湖先生。玄城検校が江戸から京都へ帰る際に、伴の友六が水茶屋で知り合ったおりよという女と結託して、持ち金をあるだけ盗み、木曽の山中に玄城を駕籠ごと放って逃げてしまうという悪事。雪の中で難儀をしていた玄城を救った若造という男の親切が素晴らしい。

山田村の我が家で介抱したが、若造も借金を抱えて夜逃げしようとしていたところ。だが、先祖伝来の仏壇を壊して囲炉裏にくべて暖を取り、玄米に味噌で味付けした雑炊を食べさせ、玄城を助ける。お互いに一文無しだが、玄城には琵琶を弾いて平家物語を語る芸があるから、美濃大垣に出て、京都への路銀を稼げばいいと提案し、同行して世話をする。路銀も十分できたところで、「お前さんも一緒に京に来ないか」「借金返済にこの稼いだ金を使いなさい」と玄城は言うが、若造は「おらの借金はおらが返す」と意固地だ。玄城は「京に来たら、立ち寄ってほしい」と言って別れた。

3年後。若造が玄城を訪ねる。常滑、近江、加賀と旅して、今度は大坂で稼ごうと思っているが、まだ返済できる金が出来ていないという。玄城は金を渡そうとするが、若造は相変わらずの「一刻者」で、これを断る。「こんなものが欲しくて、訪ねたんではない。引っ込めろ」。しかし、玄城は「かけがいのない命を助けてくれた御礼がしたい」。

すると、若造は平家物語を語ってほしいと願う。玄城は思いをこめて、琵琶を弾き、語る。物語が最高潮に達したとき、玄城は琵琶を柱に投げつけ、粉々にしてしまった。そして、炉にくべる。「あの日、あなたは仏壇を壊して炉にくべてくれた。そして、あのときの玄米に味噌の雑炊ほど美味いものはなかった」。“志には志を”という思いだ。

若造が言う。「親父からお前の一刻は他人様を傷つける一刻だと言われた。これからはどこへ行っても可愛がられるようにしようと思う。世の中は持ちつ持たれつ。今なら、素直にあなたから金を受け取れる」。玄城検校と若造の厚い友情物語に痺れた。