落語わん丈~真打直前
「落語わん丈~真打直前」に行きました。
「転失気」立川志の麿/「寿限無の夜」三遊亭わん丈/「稲葉さんの大冒険」柳家喬太郎/対談 わん丈×喬太郎/中入り/「母にマナーを」三遊亭わん丈/「ハナコ」立川志の輔/対談 わん丈×志の輔/「匙加減」三遊亭わん丈
わん丈さんが入門前に新宿末廣亭で円丈師匠がトリをとっているときに聴きに行ったら休演で、代バネが喬太郎師匠だったそうだ。そのとき初めて、喬太郎師匠の高座を聴いて、なんて自由で面白い噺家さんなんだと思い、一遍でファンになり、しばらく追いかけていたそうだ。そのときのネタは「ハンバーグができるまで」だったそう。
喬太郎師匠も2000年にたい平師匠と二人で抜擢で真打に昇進している。真打昇進の発表は普通、披露目の1年前くらいなのに、そのときは2年前と発表が早かった。大変名誉なことなのだが、喬太郎師匠いわく「人間が弱くて、鬱になり、潰れそうになった」。さん喬師匠に「真打を辞退したい」と言ったら、さん喬師匠は「いいよ。お前がやりやすいようにしてやるから」と言ってくれたそうだ。「この優しさで救われた」。
そして、「立ち直る」ことを目的に、落語協会の2階で毎月1回、勉強会を1年間続けた。それでようやく踏ん張れて、無事に真打昇進披露を迎えることができた。ちなみに新作「棄て犬」はこの時期に出来たそうだ。
真打になって数年で、花形演芸大賞を受賞した。「1回受賞したら、それで終わりだと思ったら、また次の年も(審査対象となる花形演芸会に)出てください」と言われ、「大賞を受賞したのに、次の年は受賞できなかったらカッコ悪い」と思って、死ぬ気になって取り組んだ。
それが続いて3年連続大賞受賞となった。出場資格は芸歴20年までで、まだ資格はあったが「さすがに精神がもたない」と思い、「卒業させてください」とお願いしたそうだ。喬太郎師匠は本当に何でも真摯に取り組む方なので、プレッシャーと戦いながら達成した「3年連続大賞受賞」は本当に頭が下がる思いだ。
わん丈さんは今年、41歳で真打に昇進するわけだが、喬太郎師匠の41歳はどういう時期でしたか?という質問に、「50代に向けて、ちゃんと語れる力をつけたい」と思ったという。若手の会を恵比寿の会場で開いて、小三治師匠をゲストにお招きしたときに、(どちらかというと地味な)「出来心」をお掛けになって、ドカンドカンと受けていたときに、「この人はすごいなあ」と思ったという。
先代小さん「碁泥」、さん喬「品川心中」、談志「紺屋高尾」…こういう先輩たちの「語りの力」、それは芸の底力ともおっしゃっていたが、こういう地力をつけることをしていかなきゃと思って今日まで取り組んでいると。自分が「きょうはよく出来たかな」と思うときに、お客さんの反応がそうでもなかったり、逆にお客さんにドカンドカン受けているのに、自分は納得がいってなかったり。まだまだです、と謙遜されていたのが印象に残った。
わん丈さんへのアドバイスとして、1つは「あざとさも時には必要。人を不快にしない程度に」、もう1つは「仲間を大事にすること」。それさえできていれば、「いい真打になれる」とエールを送っていた。
志の輔師匠はわん丈さんが落語研究会で掛けた「近江八景」をテレビで観て、この人はすごい人だなあと思ったという。三代目金馬が得意とした地味な噺を自分なりの工夫で聴かせている力に感心したそうだ。
わん丈さんと同じ28歳で入門。42年前のことだが、入門後半年で談志師匠が落語協会を脱退、「お前は俺が一人で育てる」と言われて、戸惑いもあったそうだ。落語界で声を掛けてくれる人が少なかったこと、でもその中で温かい声を掛けてくれた人への恩は忘れないという。
談志が「寄席がなくても育つ」ことを証明するための、実験的な存在の第1号として、談志師匠に「何でもやって来い!」と言われ、数本のテレビやラジオのリポーターをしたことも良い経験になったという。
入門して1年で、「俺が落語だ」という師匠を見て、「おれは談志にはなれない」と思い、そのスピリッツを咀嚼して、「自分の落語を作ろう」と思ったことが、今日の“志の輔らくご”につながっている。談志の「やかん」はできない。じゃあ、自分は何をやるか。清水義範さんの書いた「バールのようなもの」と出会い、それが自分の「やかん」になった。
談志が「芝浜」や「文七元結」と格闘しているのを見て、自分には何ができるかと考えたという。それが寄席とは違う劇場で演る落語、普段は演劇や音楽が公演されている空間を、2時間から2時間半、「落語の世界」にするということ。それが自分の進むべき道だと思ったという、志の輔師匠のお話に思わず膝を打った。