玉川奈々福「沢村豊子解体新書~たーへるあなとよこ」、そして落語教育委員会

木馬亭の日本浪曲協会二月定席初日に行きました。きょうは曲師の沢村豊子師匠の米寿祝いを兼ねた公演だ。豊子師匠は2月25日の誕生日で満87歳になるが、数えでは88歳。一月の定席千秋楽にお祝いを予定していたが、豊子師匠がインフルエンザに罹患してしまい、二月定席に延期になっていた。

「松山鏡」玉川奈みほ・沢村豊子/「みみず医者」東家志乃ぶ・東家美/「貝賀弥左衛門」富士綾那・沢村博喜/「千両みかん」澤恵子・佐藤貴美江/中入り/「大高源吾 腹切魚の別れ」東家一太郎・東家美/「水戸黄門記 出世の高松」神田阿久鯉/「燃える絆」富士琴美・佐藤貴美江/「沢村豊子解体新書~たーへるあなとよこ」玉川奈々福・沢村豊子

主任の奈々福先生がリスペクトと愛情たっぷりに、11歳から浪曲一筋の豊子師匠の評伝的な浪曲に仕上げて、興味深かった。

豊子師匠は昭和12年福岡県で生まれ、西杵炭坑のある佐賀県北方町(現・武雄市)で育った。父親は節劇の浪曲師として活躍したが、妬んだ誰かがお茶に水銀を入れたものを飲んで声が出なくなり、呉服の行商人になったという…。豊子師匠は「踊りのお師匠さん」になりたいと三味線を習っていたが、佐賀劇場に浪曲師の佃雪舟一座が来たときに「相三味線を探している」と聞いた知人が楽屋に連れていき、太棹三味線を試し弾きさせられた。それまでは細棹しか弾いたことがなかったが、その才能が認められた。「東京に行くか?」と問われ、11歳だった豊子師匠は「東京に行く=踊りのお師匠さんになれる」と思い、「はい」と返事をした。そして、両親もそれを認めたという。

そのまま一座の九州巡業について回り、「覚えが早い」と褒められ、東京に来ると、佃雪舟の住み込みの弟子となった。そして、浅草田島町の山本艶子師匠に三味線を教わり、訓練を重ねる。そして、佃雪舟の曲師として全国を公演して廻った。芸名は佃美舟と名乗った。こういう中で、桃中軒雲右衛門の「南部坂雪の別れ」の“桃調”と呼ばれる手や三ツ撥と呼ばれる手を習得したそうだ。豊子師匠はいとも簡単に弾かれたが、かなり難しいテクニックらしい。

ほかの浪曲師の曲師のなりたいと、国友忠先生の浪曲教室に通うとともに、様々な浪曲師のレコードを山のように聴いて研究。国友先生の内弟子となり、ラジオで活躍する国友先生の放送浪曲の曲師を長年務めることになる。奈々福先生も2年間だけ国友先生に教わったそうで、多彩な節使いが特徴だったという。初代木村重松の安倍川町の節をうなってみせてくれた。

戦後の浪曲全盛の時代、豊子師匠は“看板”の曲師として大活躍した。だから、ほかの曲師が楽屋に寝泊まりしている一方で、豊子師匠はいつも旅館のふかふかの布団で寝られた。国友先生と一緒に出演したラジオ浪曲の出演料を豊子師匠は貰っていないそう。国友先生が豊子師匠名義の銀行口座に積み立てしてくれていた。後年、国友先生が中国残留婦人帰国活動に尽力されたときに生かされたそうだが。ここで、奈々福先生は鼈甲斎虎丸の節をうなった。

昭和39年に国友先生が一旦引退すると、豊子師匠も29歳だったが一旦浪曲の世界から身を引き、子育てに専念した。いわく「堅気になろうと思った」。だが、その10年後に三波春夫先生の奥様から「曲師をやってくれないか」と依頼があったとき、豊子師匠は「もう堅気だから」と断ったそうだ。すると、奥様に「天下の三波の三味線が弾けないのか!」と言われ、曲師として復帰する。このことは、豊子師匠も「戻って良かった」と言っているという。

そして、浪曲界の錚々たる大看板の曲師を長年務め、近年では国本武春、そして奈々福先生の曲師も2003年から21年も務めて貰っていると感謝を述べた。

まさに昭和、平成、令和と浪曲とともに歩んだ生き字引的な存在。沢村豊子師匠の功績は計り知れないと改めて思った。

夜は「落語教育委員会」に行きました。オープニングコントは「敬老会編」、開口一番は柳家小太郎さんで「千早ふる」だった。

三遊亭兼好師匠の「七段目」。歌舞伎をよく研究されているのが伝わってくる。若旦那と定吉が平右衛門とお軽に扮して一力茶屋由良之助請け出しの件をやりとりする芝居台詞。「お前は兄さん、恥ずかしいわいな」…「その文、残らず読んだかえ?」…「互いに見交わす顔と顔、ジャラ、ジャラ、ジャラつきだすと身請けの相談」…「この兄の頼みはのう」。下座の三味線と太鼓が入り、下手に黒子役の前座、けろよんさんの附け打ちをあえて見せる演出が良いと思った。

三遊亭歌武蔵師匠は「家見舞」。道具屋に50銭しかない予算を打ち明けるところ、掌を50の形にするのだが、「カナリアの左足?」と訊かれ、「この指がかじかんでいるところ」を見てほしいと訴えるのが可笑しい。道具屋主人は呆れ、「義理を立てるというのが間違い」とするも、「甕なら何でもいいのか?」と言って、肥瓶を案内して、「これなら10銭でいい」と言うのが笑えた。

柳家喬太郎師匠は「品川心中」。移り替えができなくてみっともない、いっそ死んでしまいたい、でも相手を探して一緒に死んで、心中にすれば浮名が立つと考えるお染の安直。それに乗っかって、「一緒に死のうじゃないか!」と反応する“バカ金”こと貸本屋の金蔵もこれまた軽薄で、このコンビだからこそ愉しい落語が生まれる。「キ、ン、ちゃん!」と色仕掛けで心中相手を逃さないお染の手練手管も楽しい。

流山のお大尽が50両持ってきたという情報がもたらされると、「お金があるなら、死なないよ!」と態度を一変するのも、安直なお染ならさもありなんと思う。「どうしたの?私、止めたのに…。後から逝くから、先に逝って待っていてね。そうね、50年後かしら」。こんな冷たくて酷い女はいない。だからこそ、金蔵が兄貴分と作戦を練って仕返しをする、この噺の後半を喬太郎師匠で聴きたいと願う。