一龍斎貞鏡真打昇進披露公演「安兵衛婿入り」

横浜にぎわい座の「一龍斎貞鏡真打昇進披露公演」に行きました。出演者はすべて一龍斎の一門という顔付け。主役の貞鏡先生だけでなく、他の出演者の高座も熱演で素晴らしかった。

「三方ヶ原軍記」一龍斎貞介/「春重出世の富籤」一龍斎貞弥/「鎌倉星月夜」一龍斎貞寿/「神田松五郎 少年時代」一龍斎貞友/中入り/口上/「寛永三馬術 孝行市助」一龍斎貞花/「赤穂義士銘々伝 安兵衛婿入り」一龍斎貞鏡

口上の司会は貞弥先生。貞寿先生は、貞鏡ちゃんが楽屋入りしたときのことを覚えているという。今はなき本牧亭で、父親の貞山先生の後ろに隠れるようにしていた、だがその出で立ちは茶髪、ブランド物のバッグ、ピンヒールと“ギャル”そのものだったとか。

恵まれたぬるま湯みたいな環境で苦労をしていないという風に見えるかもしれないが、それは大きな間違いで、「貞山の顔に泥を塗るわけにはいかない」と、それはそれは謙虚な楽屋での振る舞いだったそうだ。しくじってはいけないと、一つ一つ壁を乗り越え、どこに出ても恥ずかしくない真打に成長したと讃えた。

貞友先生は貞山先生のお仕事にお伴すること多かったそう。帰りに「のせていく?」=何か食べていくか?と誘ってくださり、焼肉屋に入ったことがあった。「焼肉屋に男女で入るのは特別な関係と思われるけど、大丈夫かい?」と訊かれたそうだ(笑)。

貞山先生は人徳があり、人柄も良く、育ちの良さもあり、発言一つ一つに皆が納得できるものがあったと振り返る。貞鏡さんはその“男らしさ”を受け継いでいると。その上に美人。「きょうは隣に並ばなくて良かった」と冗談半分に言って、4K、いや8Kでも大丈夫な美貌と客席を笑わせた。

師匠の貞花先生は「ここまで沢山の披露をやったが、きょうほど拍手が鳴りやまなかった日はなかった」と喜んでいた。父であり、師匠であった八代目貞山先生は3年前の5月に73歳で天国へ逝ってしまった。さぞ、心残りだったろうと言い、私の務めは貞鏡を立派な真打にして、九代目貞山を襲名させることだと熱く語った。

祖父の七代目貞山は「おばけの貞山」と呼ばれるほど、怪談を得意としていた。毎年8月になるとNHKラジオで5日間連続で口演を放送したほどだったという。祖父、父、そして娘と三代続いて貞山を襲名することは、講談界にとっても大きな起爆剤となる。大いにその成長を見守りたいと思う。

貞鏡先生の「安兵衛婿入り」。堀部弥兵衛の女房が、娘のお花を連れて鬼子母神にお参りに行った帰りに高田馬場で見た果し合いの様子を語り、それを興奮しながら聞く弥兵衛がとても楽しい。

六十過ぎのご老体と若党1人に対し、相手は若侍20数人。六尺もある坊主頭の大男が卑怯にも背後から斬り付けたことで、ご老体は亡き者となってしまった。だが、多くの見物人たちが口々に「グズ安が来た!」「飲んべえ安が来た!」と言うので見ると、甥にあたる男が駆け付けてきて、「仇討ってみせる!」。そのときに襷にするべくお花の腰紐、緋縮緬のシゴキをタイミング良く弥兵衛女房が男に放ったと聞くと、弥兵衛は「でかした!それでこそ、堀部の家内!」と嬉しがるのが目に浮かぶようだ。

この男が二十人の若侍を相手に斬っては捨て、斬っては捨て、死人の山を築きあげる様子を聞き、弥兵衛は「お花に良き婿を迎えることができる…御仏の導きだ!」と興奮。その男の名も住まいも聞かなかった女房を叱りつけるが、やがて高田馬場の噂は江戸中の評判となり、その男の名は中山安兵衛と判明、ほどなくして堀部家へ婿入りが決まったのも、弥兵衛の情熱ゆえであろう。

浅野内匠頭と安兵衛の対面も面白かった。吉田忠左衛門が安兵衛を連れてきて、主従固めの盃を交わすのだが、その酒豪ぶりがすごい。十二カ月の組盃。一月は一合、二月は二合、と順に一合ずつ増えていき、十二月は一升二合。そこまで一気に飲み干して、殿が「閏月も」と言うと、迷わず十二月の盃を選び、これまたペロリと飲んでしまう。それは底なし沼のようなのが愉しい。

その上で、「一差し舞いましょう」と、舞いを披露するが、足の運びも身の振り方もしっかりしている。浅野内匠頭はすっかり感心した。やがて、安兵衛はイビキをかいてその場に寝入ってしまうのも、豪傑の豪傑たる所以だろう。内匠頭は優しく自分の羽織を掛けてやるというのも、良い。

わざと刀の鍔の音を立てると、安兵衛はすぐさま、ハッと起き上がり、右膝を立て、身構えをする。一分の隙もない。これにもまた内匠頭は感心する。と同時に、安兵衛も「こんな不調法な自分に優しくしてくれるなんて」と感動する。だからこそ、「この殿ならば」と忠君の気持ちを持つのだろう。その気持ちが、後年に赤穂事件が起きたときに、仇討を誓う礎となったのだと思った。武士の心意気を気持ち良く表現している貞鏡先生の高座は素晴らしかった。