三遊亭圓朝作「錦の舞衣」俥読み

「一龍斎貞寿 芸歴20周年 錦の舞衣」に行きました。三遊亭圓朝作「名人くらべ~錦の舞衣」を柳家喬太郎師匠と一龍斎貞寿先生が俥読みする特別企画である。

貞寿先生は今年1月に「錦の舞衣」を通し口演しているが、それは数年前に尊敬する喬太郎師匠から勧められていたものを「意を決して」挑戦したのだ、とプログラムに書かれていた。そして、今回は20周年記念ということで、その喬太郎師匠と俥読みという形で通し口演することが叶ったのだという。

四席に分けての口演だったが、特筆すべきは三席目の「お須賀口説き」だろう。上手に喬太郎師匠が座り同心の石子伴作と与力の金谷東太郎を、下手に貞寿先生が座りお須賀を演じるという掛け合いスタイル。これが実にドラマチックであった。元々、この噺はドラマチックなのであるが、さらに相乗効果を増したというのであろうか、良い意味で鳥肌が立つ演出だった。

一龍斎貞寿「お須賀鞠信馴れ初め」

狩野鞠信が絵を描く気にならないほど好いた女性とは、舞踊の名手の坂東須賀。その美貌は勿論だが、芸に惚れたという。吾妻屋金八が仲を取り持とうと、お須賀に話を持って行くと、彼女は男嫌いというわけではなく、芸の妨げになるような男は一緒になっても意味がないと思っていただけ。まだ一人前ではないので銘を入れないという頑固な鞠信先生のような方であれば嬉しい話だと喜ぶが…。

一点だけ宿題があった。鞠信が描いた静御前の左手、このような手の返し方はしないと指摘する。そのことを聞き、鞠信はまだ修行が足りないと上方へ旅立つ。そして6年、146枚の絵を描き、これで良いだろうというのが出来たところで、鞠信はお須賀のところにその絵を持って行く。その出来栄えにお須賀は喜び、晴れて夫婦になるが…。お互いの芸の妨げになってはいけないと、鞠信は根津の清水、お須賀は霊岸島と別々に暮らすことにした。名人気質の二人ならではだ。

柳家喬太郎「宮脇数馬」

鞠信は谷中の南泉寺に絵を描く仕事を頼まれ、泊まり込みで絵筆を奮う。その絵の出来を見て、お須賀は大層感心し、これなら銘を入れてもいいのではないかと提案し、鞠信も同意した。ある日、ある男が鞠信の許を訪ねる。上方修行の際に世話になった宮脇志摩の息子、数馬だった。大塩平八郎の乱の残党として追われているので、匿ってほしいという。鞠信は承知し、数馬を女装させ、清水の自宅に潜むように言う。

数馬を追って、同心の石子伴作が南泉寺の鞠信を訪ねる。鞠信は知らぬ存ぜぬを貫くが、家探しされ、押し入れから男の着物を包んだ風呂敷が出てきて、そこに扇子を見つける。その扇子は深川の芸者である小菊に鞠信が絵を描いて、「まりのぶ」と記名したものだった。実は小菊は数馬の妹。それを判っている石子の追及は場所を変えて、清水の自宅でなされた。そこへお須賀がやって来て、鞠信が小菊と逢引きをしているのではないかと悋気を起こす。居たたまれなくなった数馬は潜んでいた戸棚の中で切腹。大塩平八郎の乱の残党を匿った罪で、鞠信はお縄となってしまった。小菊へ描いた扇子の絵を介して、数馬への恩義に対し、お須賀の悋気が仇をなしてしまった悲劇に胸が締め付けられる。

柳家喬太郎/一龍斎貞寿「お須賀口説き」

石子伴作の上司である与力の金谷東太郎は以前からお須賀に岡惚れしていた。牢の中にいて、毎日拷問を受けている鞠信を助けてあげたくないのか?石子はこれをネタにしてお須賀に金谷と関係を結ぶことを唆す。“操を捨てて、操を立てる”。金谷が手心を加えることが出来る力を持っているかのように言いくるめようとする手口の汚さが憎々しい。

金谷の持っている脇差は金谷家代々に伝わる名刀正宗で、いわば侍の魂のようなもの、これをお須賀に預けるということは、金谷に真心があるという証だと口説く。鞠信を救いたい一心のお須賀はついに折れ、金谷に身を委ね、一つ寝を決意する。それが操を捨てて、操を立てることだと信じて…。だが、その甲斐もなく、鞠信は酷い拷問の挙句に獄死してしまう。金谷と石子の共謀に腹を据えかねる段である。

一龍斎貞寿「根岸の仇討」

お須賀が金谷から預かった“正宗”を懇意にしている目利きの奈良屋助七に見て貰ったときの落胆と憤慨といったらないだろう。正宗なんてとんでもない、村松町モノのガラクタ同然の刀だった。お須賀は決意する。仇討だ。まず、贔屓衆を集めて、一世一代の静御前を舞った。「今なら踊れる」と思ったお須賀の心中いかばかりか。舞いの際の音響、杵屋松紀三師匠の三味線が実に効果的だった。

お須賀は金谷を誘き出す。この女が自分の手に入ったという金谷の思いとは正反対に、お須賀は例の“武士の魂の正宗”がいかに偽物だったかを目の前で「曲がるのね」と見せつけたときの、金谷の慌てようと言ったらない。お須賀はすっかり酔っ払っていて抵抗の出来ない金谷をめった刺しにして殺害。生首を風呂敷に包んで、駕籠に乗って鞠信の墓のある南泉寺へ。

「先生と二人で話がしたい。あの世で、私の舞いを絵に描いてくださいね」。そう言って、お須賀は墓前で短刀によって喉を突き、自害した。

名人絵師、狩野鞠信と舞踊の名手、坂東須賀。互いを高め合い、芸を極めることは、この世では道半ばになってしまった。だが、きっとあの世で仲睦まじくお互いの芸道に突き進んでいくに違いない。そう思わずにはいられない、「名人くらべ」である。