秀山十種の内「松浦の太鼓」二幕三場
吉例顔見世大歌舞伎夜の部に行きました。「松浦の太鼓」「鎌倉三代記」「顔見世季花姿絵」(春調娘七種、三社祭、教草吉原雀)の三演目。
秀山十種の内「松浦の太鼓」二幕三場は、松浦鎮信が片岡仁左衛門、宝井其角が中村歌六、大高源吾が尾上松緑、源吾妹お縫が中村米吉だった。
両国橋の場は哀愁だ。暮れの両国橋、雪が降っている。そこで其角は源吾を見かけ、声を掛ける。「子葉殿ではないか?」。源吾としては其角と判っていたが、わざと俯いてやり過ごそうと思っていたのだ。内匠頭刃傷で浪人となった源吾は煤竹売りに身をやつしていて、それを見られたくなかったという憂いを感じる。
俳諧を通じて旧知の仲だったのに、疎遠になってしまった其角としては懐かしさもあり、近況を聞きたいという気持ちがあった。恥じらいながら応じた源吾に対し、其角は優しい言葉を掛け、「寒いだろう」と松浦侯から拝領した紋服を譲る。源吾としては居たたまれない気持ちがあったろうが、其角の温かさに触れ、嬉しい気持ちもあったのではないか。
そして、其角の「年の瀬や水の流れと人の身は」に対し、源吾は「明日待たるるその宝船」と付け句をする。そこには赤穂浪士としての気概がこめられていた。討ち入りをすることは親兄弟にも口外できない源吾にとって、この下の句の真意が明日には其角にも理解できるだろうという強い意志が感じられるのが良い。
松浦邸の場は松浦侯の純情と歯痒さだ。奉公している源吾の妹のお縫につらく当たっているのには、理由があった。大石内蔵助は松浦侯にとって山鹿素行の同門弟で、赤穂浪士に同情するとともに、隣家の吉良邸に討ち入ることを心待ちにしていた。それが、仇討を企てるどころか、茶屋で遊興に耽っているという噂を聞き、愛想尽かしをしてしまったのだ。
だから赤穂浪士の一人である大高源吾が煤竹売りに零落し、忠義の心を忘れていることが歯痒くて仕方がなかった。それゆえ、妹のお縫に暇を出すなどと言ってしまう。其角がとりなしても聞く耳を持たない。これも松浦侯の純情ゆえのことだ。
だが、其角とお縫が立ち去ろうとしたとき、其角は源吾に会ったときの付け句について言い残した。すると、松浦侯はそこに何某かの思いを感じ取る。と同時に隣りから鳴り出した陣太鼓の音。それも山鹿流だ。これは赤穂浪士が討ち入りしたに違いない!松浦侯は興奮する。源吾の付け句は今宵の討ち入りを暗示したものだったのか!松浦侯の純情さが発露した場面、とても魅力的だ。
そして、松浦邸玄関先の場は興奮である。馬に乗って吉良邸に助太刀に行こうとする松浦侯を家来たちが制している。そして、源吾が面会に来た旨を門番が伝え、源吾を招き入れる。
源吾は討ち入り本懐を遂げた様子を語り、見事に吉良の首を討ち取ったことを報告する。松浦侯の満面の笑みで喜ぶ無邪気な姿がとても印象的である。そして、源吾の辞世の句にグッとくる。山を裂く刀も折れて松の雪。松浦侯に差し出されたこの句を読むと、玄関先の松に積もった雪が落ちて、松浦侯の肩に降りかかるのが何ともハッピーエンド(勿論、この後に大高源吾は切腹するのだが)で微笑ましく感じた。