古今亭志ん生没後50年追善興行 千秋楽、そしてさん喬あわせ鏡 花の巻

新宿末廣亭九月中席千秋楽昼の部に行きました。古今亭志ん生没後50年追善興行の最終日である。僕は初日昼の部、雲助師匠が主任のときに行って以来だが、今回は昼の部の主任が古今亭志ん輔師匠。座談のゲストは京須偕充さんだった。

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座談会のゲストはソニーミュージックエンタテインメントのチーフプロデューサーで、TBS落語研究会の解説でもおなじみの京須偕充さんだ。そこに伯楽師匠、志ん輔師匠、菊龍師匠が加わった。司会は菊龍師匠なんだけど、志ん輔師匠がこの手の役割は慣れていて、おかげで興味深い話を引き出してくれた。

京須さんは志ん生師匠の生で元気な頃の高座を十数席聴いているそうだ。昭和36年の巨人軍優勝祝賀パーティーで脳出血で倒れる前、という意味だ。可笑しかったのは「元気」と言っても、「あの人は気まぐれで、フワフワしていて、何を喋り出すかわからない」。それが志ん生の魅力でもあったのだと思う。

よく、戦後爆発的に売れたと言われているが、昭和10年代には演芸通の間ではかなり評価されていて、そういう意味では「時間をかけて、売れるべきときに売れた」というのが正確だそうだ。戦前、吉本興業の小屋である神保町の花月で月一度の独演会もやっていたとか。

初代三語楼の影響を受けて、「変なことを言う」噺家として人気を得た。これは今で言うところのギャグを噺の中に入れるという意味。金語楼先生にも、「あなたは上手い。さらに面白い噺家になりなさい」と言われたそうで、よく志ん生の芸を天衣無縫とか破天荒とかいう言葉で表現されるが、その底流には計算された笑いの哲学があったように思う。

一緒に満州に行った円生との比較も興味深かった。志ん生はよく言われるフラ、体から滲み出る可笑しさを身上とした。一方の円生は努力の人。鍛えられた筋肉に裏打ちされた芸だった。これは「円生百席」でとことん付き合った京須先生ならではの表現だなあと思った。

夜は「さん喬あわせ鏡 花の巻」に行きました。「猫定」「抜け雀」「鴻池の犬」の三席。

「猫定」。博奕打ちの定吉と愛玩していた猫のクマの間に信頼関係があったのだなあと思う。定吉が暫く江戸を留守にしている間に、女房のおたきと源次が深い仲になってしまった。そのことをクマなりに主人の定吉に伝えようとしているのがわかる。

人間で言えば、忠義心に厚いとでもいうのだろうか。定吉が源次に刺される予兆を何とか伝えようとし、実際に定吉が殺される現場では源次の喉笛に食らいついて仇を討った。さらに共犯者であるおたきの喉笛も掻っ切った。

よく忠犬ハチ公など、犬がよく忠義の代表にされ、猫はどちらかと言うと化け猫など不吉な動物扱いをされる印象があるが、この「猫定」のクマは定吉から受けた恩をしっかりと仇討という形で示している。好きな噺である。

「鴻池の犬」。さん喬師匠が独自に脚色していて、特に江戸に残されたシロが大坂のクロ兄ぃを訪ねて旅をするロードムービーになっているところが好きだ。

三匹の捨て犬のうち、小僧の定吉が可愛がっていたクロが鴻池善右衛門に引き取られてしまった。残ったブチは餌を拾おうとして大八車に轢かれてしまい、孤独なシロは大坂のクロに世話になろうと東海道を上る。

途中、お伊勢参りのハチと出会い、一緒に旅するところが素敵だ。箱根、富士山、三保の松原、清水港、桑名…。お囃子もそれに合わせた演奏となり、犬の二人旅ならぬ二匹旅を彩って面白い。

そして、大坂船場の鴻池に到着し、クロ兄ぃとの久しぶりの再会に嬉しくなる。クロはこの辺りでは気っ風の良い、親分肌で“鴻池のクロ”と一目置かれている存在。毎日のご馳走を食べ飽きたクロはシロに、鯛の浜焼きや鰻巻き、カステラなどを与え、どんどん食べろと優しくしてくれる。犬の兄弟愛が擬人化されて、上質のファンタジーに思えた。