玉川奈々福「丹野布衣左衛門行状記」、そしてらくご植物ものがたり
「奈々福なないろ vol.6」すっとこどっこいフェス!に行きました。「丹野布衣左衛門行状記」と「狸と鵺と甚五郎」の二席。開口一番は弟子の玉川奈みほさんで、「不破数右衛門の芝居見物」だった。
「奈々福なないろ」は玉川奈々福先生の年1回の自主公演で、毎回意欲的なチャレンジをしているので、とても楽しみな会だ。19年「銭形平次捕物控―雪の精―」、20年「悲願千人斬の女」、21年「シコふんじゃった」。どれも奈々福先生以外では聴くことのできない長編作品を楽しんだ。
そして、今回はワーグナーの歌劇「タンホイザー」から着想を得たという、その名も「丹野布衣左衛門(たんのほえざえもん)行状記」!ハンガリーのブタペストで生演奏を聴いた直後に、「これだ!」と思ったそうだ。
兎に角、主人公の丹野布衣左衛門のすっとこどっこいぶりに振り回される。西の果てに浮かぶ女護島を支配する王女に、その美しい歌を歌う才能に惚れられ、随分と長いこと、良い思いをしてきた布衣左衛門だが、ある日突然「忘れ物がある」と言って島を去ってしまう。
実は布衣左衛門は西国の稲月藩で和歌の指南役をしている父の息子で、藩主の稲月右近の姪である稲月えりとは許婚だったのだが、突然、行方不明になっていたのだ。行き倒れになっていた布衣左衛門を友人の行道徳之進が見つけ、助けられた。三味線の名手であるえりの許に戻った、天下一の歌い手である布衣左衛門の噂は藩内に知れ渡った。
年に一度の歌合戦が開かれる。選ばれし歌人6人が出場。勿論、布衣左衛門もその一人だ。今年のお題は「愛の本質」。どよめいた。これまでは「武士の本分」や「忠君愛国」といったお題だったからだ。出場者は夫と妻が支え合う美学やら、女性のために勇敢に戦う男の姿やらを歌った。
だが、布衣左衛門は「心の中にある思い」を素直に歌にした。愛とは唇を重ね、奥へ奥へと求める心。愛は身体を深め合うもの。布衣左衛門は女護島で王女と愛し合った夢のような日々を思い出し、歌にした。
しかし、藩主は「武士にあるまじきこと」と罵倒。藩から追放されてしまう。えりは布衣左衛門の心を理解していたが、布衣左衛門はえりの悲しい顔を見て、傷つけてしまったと気づき、修行し直すと言って、旅に出た。
えりは言う。この世に女と生まれきて、この人こそと思った人と、かくすれ違う恨めしさ。置いてけぼりの私と鳴らぬ三味線をあの人は顧みることがあるのだろうか。
布衣左衛門は出羽三山で修行しているとも、阿波の国でお遍路をしているとも、風の便りで聞いた。そして、浅草広小路で浪花節の大道芸をしていると聞いて、えりは出向く。徳之進に「私と一緒になってくれ」と言われたが、「人の心はままならぬもの。三味線であの人と一つになれる。それが定めなのです」と言い切った。
浅草。ざんばら髪で薄汚れた着物の男が三味線なしで潰れた声で歌っている。えりが訊く。「元気ですか?なぜ戻ってこないのですか?」。私がいなくてもつつがなく暮らしている。どんなに愛しても、あなたはどこ吹く風。二人で一つなのに、気づこうともしない。生きていく甲斐がありません。私はもう死にます。好きに生きてください。そう言って、えりは布衣左衛門の前で崩れ落ち、事切れた。
だが、布衣左衛門の頭の中ではえり様が三味線を弾いている。そして、歌い続けている。「鳴る。三味線が鳴る。ならば歌うが歌人の性」。えりが布衣左衛門に憑依して、歌をずっと歌い続けている。
気まぐれで、自分勝手で、すっとこどっこいな男だが、それでも一人の女性に愛され続けた。ならば、そんな好き勝手な生き方を貫き通すのが、男の生きる唯一の道なのかもしれない。布衣左衛門とえりの二人に愛はあったのだと思う。
夜は「演芸写真家 橘蓮二プロデュース『極』vol.15 らくご植物ものがたり」に行きました。三遊亭萬橘師匠、蝶花楼桃花師匠、桂二葉さんの三人会だ。
二葉さん「青菜」はこれで聴くのが三度目だが、飽きることがない。伸び盛りの勢いをそこに感じるからかもしれない。鯉の洗いを山葵醤油で食べることを勧められ、山葵だけ丸ごと口に入れてしまい、「口に合わん」と言うところ。鯉の洗いがないから、大工の友人が訪ねてきたときに“おからの炊いたの”を出して、鯉の洗いをお食べとするところ。
植木屋の、まさに上方言葉で言うところの“阿呆”ぶりの表現が自然体な演じ方でここまで可笑しいのか!と思わせる。この噺家は一体、どこまで笑わせてくれるのだろう?と果てしない無限の可能性を感じる。
桃花師匠「ピーチボーイ」。小朝師匠に芸風が良く似ている。師匠と弟子だから当たり前なのかもしれないが、高座に向き合う姿勢含めて似ている。良く言うと、笑いに対する計算高さに優れているということなのだが、悪く言うと、「この位の笑いでお客さんは喜んでくれるだろう」という、“あざとさ”を強く感じる。
好き嫌いの問題で済ませたいところだが、口が達者であることが落語の良し悪しにおいて必ずしもプラスにはならないこともあると個人的には思う。大きなネタに挑戦し、多少たどたどしいくらいの不器用な高座を僕は歓迎したい。
萬橘師匠「千両みかん」。噺のはじまりが若旦那の病気ではなくて、番頭の来年の暖簾分けからスタートするのが何と言っても良い。50両貰えるのを喜んでいるが、サゲで「みかん三房で300両」にこれが効いてくる。
若旦那の「ふっくらとした、艶やかな、瑞々しい」の後、「コロコロ転がる、ブツブツのある」みかんという言い回しがとても愉しい。番頭に一瞬「恋煩い?」と思わせて、そうでない否定表現がすぐ入るのが笑えた。
あと、旦那の言葉によれば、「お祖父さんは西瓜が食べたくて、それが叶わず、番頭は主殺しで磔に処された」というエピソードも萬橘師匠らしい工夫だ。また、番頭が「みかんに季節があることを知らなかった」という設定にしているのも異色で、全編にわたって萬橘カラーに染められた実に愉しい高座だった。