現代の肖像 落語家 桂二葉
「AERA」9月11日号の「現代の肖像 落語家 桂二葉」を読みました。
僕の中では、二葉さんは上方落語家とか、女流落語家とかいう括りをしていない。普通に噺家という土俵の上で戦っている一人として、この一年でとても好きな噺家さんになった。この文章には、その気持ちをなぞるものが沢山出てきて、なるほど!と膝を打った。
入門してしばらくはアフロヘアにしていたこと。これは“女流落語家”と思われるより先に“アホっぽい”と思われたいからだったそうだ。すごい。
噺家になろうと決意して、色々な噺家さんを見てみたが、女性落語家には違和感を覚えたという。全員の女性落語家を見てわかった。無理をしている。特にアホな人を演じると痛々しいと感じたそうだ。そして確信した。「自分なら嘘なくアホができる」。
賞レースにも積極的に参加したのは理由がある。“女流”という言葉がすごく嫌だった。でも、そういうことは勝ってから言おうと思った。勝っても勝たなくても言うべきことは言うべきだと思うけど、「やっぱり勝ってから言った方が説得力が違う」。よく考えてる。
「らくだ」の台詞の一言へのこだわりにも畏れ入った。今年2月に「桂二葉しごきの会」でネタ卸しした。そして、7月の有楽町朝日ホールでの「桂二葉チャレンジ!!」で台詞を変更した。屑屋の独り語りのところ、最初の女房は「女一通りの道、みんな出来た。縫い針、茶、花。けど、貧乏慣れしてなかった」。ここの「女一通りの道」をカットした。
なんか引っ掛かる、別に言わんでもいいかな、引っ掛かったままやると、嘘っぽくなる。この感覚は非常に大事だと思う。「嫁はん」とか、「奥さん」もあまり言いたくない言葉だという。さすが。
自分が腑に落ちる噺をやるこだわりに感嘆した。それが「立ち切れ線香」への違和感につながる。上方落語の屈指の人情噺とされているが、二葉さんは「どの辺に心が動くのか。不思議だ」と言っている。だが、「ちょっと挑戦してみたくなるんです」とも。
古典落語へのこだわりのある人だ。それが素晴らしい。「古典がうまい女の人って、あまりいないじゃないですか。そこへの欲があるんです。醍醐味があります。たまらなくワクワクします」。
これからどんどん成長する伸び代を持っている噺家だ。僕は出来る限り、彼女の高座を観ていきたいと思う。