納涼歌舞伎「新門辰五郎」三幕五場
八月納涼歌舞伎第二部を観ました。「新門辰五郎」と「団子売」の2演目。「新門辰五郎」は真山青果が昭和14年に「講談倶楽部」に掲載し、昭和16年に映画化、同18年に前進座で舞台化されたそうだ。昭和51年に歌舞伎座上演以来、実に47年ぶりとのこと。そのときの新門辰五郎は萬屋錦之介、会津の小鉄が中村嘉葏雄だ。
新門辰五郎(松本幸四郎)は幼少時に実家が火事に遭ったことから、町火消の浅草十番組「を組」の頭に引き取られ、後に養子となって組を継承、棟梁になった男。一橋慶喜の知己を得て、幕末から明治初頭にかけて慶喜に従って活躍した。
一方、会津の小鉄(中村勘九郎)は同じ時代に生きた侠客。全身に70か所もの刀傷があったとも言われ、背中には小町桜の刺青があり、小柄なことから「小鉄」という異名を取った。京都守護職に任じられ会津藩主松平容保の配下にいた。
この二人を中心に、幕末動乱期の京都を舞台に、歴史の荒波に巻き込まれた男たちの心意気と苦悩が描かれている。印象に残った3つの場面について少々書く。
岩田という寄席の前の場。娘義太夫が掛かっていたが、この客席で新門側と会津側の男たちが諍いを起こし、喧嘩がはじまる。そこへ、まず新門辰五郎が現われ、続いて会津の小鉄が現われる。小鉄が辰五郎の求めに応じて、双方の言い分を聞く。そして、会津側に非があることを小鉄が認め、詫びを入れさせると申し出る。すると、辰五郎は喧嘩両成敗だと言って、互いの遺恨は水に流そうと応え、双方は手を打つ。対立関係にある集団の抗争を、お互いの長が大人の対応で収めるところに、男の美学を感じる。
二条城のほとりの場。絵馬屋の勇五郎の隠居(中村歌六)が辰五郎の息子の丑之助(中村勘太郎)が行方不明になっていることを告げ、会津の屋敷にいるのではないかと辰五郎にほのめかす。そして、攘夷派の水戸の天狗党の侍を八重菊(中村七之助)に匿わせながら、一方で将軍家に尽力するのは矛盾ではないかと迫る。返す言葉もない辰五郎。
そのとき、火事によって祇園社が燃え、知恩院の大屋根に類焼するかもしれないという情報が入る。そこへ辰五郎の子分の彦造(中村隼人)が現われ、丑之助が行方不明になったのは自分が原因であり、その詫びに死を覚悟して、会津屋敷に乗り込むと暇乞いをする。
そのとき辰五郎は「火消の死に場所は火事場だ」と言って、「祇園さんは京都の宝、京都の宝は日本の宝」と啖呵を切り、火事装束でやって来た一同と共に火事場に向かう。政治云々よりも、本来の火消の心へ戻った辰五郎の心意気が素晴らしい。
新門辰五郎の旅宿の場。辰五郎たちの活躍で火事は収まった。そこへ会津側の九紋龍の定五郎(市川男女蔵)が訪れ、昨夜の火事は八重菊が匿う水戸の侍によるもの、その侍に関わりがあると思われる丑之助の身柄を預かっていると揺さぶる。辰五郎は取り合わなかったが、自分が死ぬほかないと覚悟の遺書を認める。
そこへ現れた手拭いで顔を隠した男。なんと丑之助を伴って来た。その男は会津の小鉄だった。辰五郎が死を覚悟していると察した小鉄は、辰五郎を諭した上で、手拭いを取ると坊主頭だ。そのときの小鉄の言葉、「御政治向きは御政治向き、人間はまた人間だ」を聞き、辰五郎は小鉄が水戸天狗党の都築三之助(市川染五郎)らを見逃す心であることを知る。
そして、辰五郎は小鉄に兄弟分になってほしいと願う。男伊達の世界の美学に深く感じ入った芝居だった。