これやこの サンキュータツオ随筆集
「これやこの サンキュータツオ随筆集」(角川文庫)を読みました。
サンキュータツオさんの覚悟に感嘆した。これから70代に入り、この先の10年が黄金の10年になるはずだった、柳家喜多八師匠と立川左談次師匠へのリスペクトと「渋谷らくご」における取り組みへの熱い思いを知り、涙を禁じえなかった。
渋谷ユーロスペースのオーナーである堀越さんから受けた、定期的な落語会をはじめてほしいという依頼に対し、タツオさんは「無理だ」と返答したという。落語界に落語論や蘊蓄を語る人物はやまほどいるが、興行論に明るい人物がいない。一回きりのイベントを成功させる「点」はいくらでも作れるが、それを「線」にしたり、スターを生んだり業界に一石を投じるような「面」を作れる人物がいない。そういう狭い業界であることをタツオさんは十分すぎるほど認識していたという。
そこでタツオさんは「初心者向けの落語会」を謳う覚悟をした。それはとても勇気のいることで、その理由については本書に詳しく書かれているので、それを読んで頂きたいが、それ以上にタツオさんの素晴らしいところは落語界の急務の宿題に向き合ったことだ。向こう20年で亡くなっていくであろう既存の落語ファンをいつまで相手にするのか、30年後も落語を聴いてくれる人たちを確保するには、いまの20~40代に落語を聴いてもらわなければいけない、という宿題だ。
専門情報誌「東京かわら版」はホチキス製本ではなく背中つきの厚い小冊子になった。幸せな時代が到来したかと思われるが、反面、だれを聴けばいいのか、初心者には逆に探しづらい状況となっているとタツオさんは分析する。だからこその、「初心者向けの落語会」なのだ。そのために毎月5日間興行として、平日は20時開演、土日は14時と17時開演。同僚や知人にも誘いやすい会とした。単日公演は「点」にしかならない、どのタイミングから入っても魅力が伝わる「線」にしたいというタツオさんの願いがあったのだ。
2014年11月に「渋谷らくご」はスタートしたわけだが、その際にタツオさんが「どうしても捕まえないといけない」と思った人物がいた。柳家喜多八師匠だ。すでに業界では熱い視線を浴びるベテラン、その腕前を疑う人はまずいない。個性も強く、一度見たら忘れないであろうインパクトを残せる実力派。この喜多八師匠に継続的に「線」として出演してもらい、会全体の重しになってほしかったと書いている。
60代後半から70代、「黄金の10年」がこれから訪れようというとき、その落語家を支えるのはこれまで支えてきてくれたお客さん、追いかけてきてくれたご贔屓を大事にして、さらなる高みに挑む時期だ。落語のらの字もわからない若い人相手に悪戦苦闘する必要などない。しかし、喜多八師匠はタツオさんの一切のオファーを断らなかったという。寧ろ、面白がってくれたとも。
一方で喜多八師匠を襲ったのが癌という病魔だった。だが、高座に上がると苦しい様子は微塵も見せずに熱演を繰り返した。命を削って目の前にいるお客さんに全てを懸けて落語を演じていた。タツオさんは2016年1月の最終日最終公演について、喜多八師匠に一つの提案をした。二ツ目の弟子のろべえさん(現小八師匠)をトリにお願いして、「新年のご挨拶」という時間を設けて、出演者がお客様にひとりずつ口上を述べる時間を作るというものだ。「みなまで言わない。これがなにを意図したことなのか。(中略)はたして喜多八師匠は察しただろうか」とタツオさんは当時の思いを書いている。
この公演をやるのであれば超満員でなければ意味がない。一人でも多くの人に、二ツ目がトリを務める重圧と闘う姿、そして最後に師弟が高座で揃って口上を述べる姿を見せたい。そう考えたタツオさんは、他の二人の出演者について喜多八師匠と相談し、春風亭一之輔師匠と神田松之丞さん(現伯山先生)に決まった。この日の動員記録はいまだ破られていないそうだ。会場もMAXの客入りが何人かを把握していなかった頃だ。消防法上、いまでは到底この人数を入れることは許されない、そんな盛況だったという。タツオさん自身、「この場を用意できたことが私の誇りである」と書いている。そして、同年5月17日に喜多八師匠は亡くなった。享年六十六。ろべえさんは翌年3月に真打に昇進した。
タツオさんが「渋谷らくご」スタート当初から、いつ声を掛けようかとタイミングを見計らっていた人物が、立川左談次師匠である。2015年11月の一周年記念に出演が実現し、以来欠かせないメンバーとなった。だが、2016年8月に自ら食道癌であることを公表、以来抗がん剤治療のため入退院を繰り返し、「渋谷らくご」にも休演することしばしばだったが、タツオさんは本人の強い希望を尊重して、毎月オファーを続け、左談次師匠もそれに出来る限り応えてくれていたという。
そのときに考えたのが左談次師匠が5日間全ての高座に上がる「立川左談次」月間だ。だが、特別にプッシュする動機が必要。「癌だから」は絶対にダメである。左談次師匠が談志師匠に入門したのが、1968年。正確には50周年は2018年になるが、2017年は「50年目」に入る。多少こじつけだが、「立川左談次高座生活五十周年特別興行」はどうだろう、とタツオさんは考えた。
何度か口頭でその旨を伝えていたら、2017年1月に左談次師匠からDMが届き、末尾に「50周年やりたい」とあり、タツオさんの肚が決まったという。そして、食道癌公表から1年、同年9月に開催することが決まった。立川流の噺家は寄席定席の出演がない。左談次師匠は「5日間も同じ場所に通うのは、実に35年ぶりであります」と喜んだそうだ。
そして、演目を事前に五席決めておいて、どの日に何をやるかは伏せるというやり方で高座に上がることになった。タツオさんは「阿武松、再聴したい気持ちはあります」と伝えると、快諾をもらい、ほかに「浮世床」「妾馬」「反対俥」「短命」がネタ出しされた。千秋楽に「阿武松」が掛かった。拍手は鳴りやまなかった。スタンディングオベーションが起きる、まさにその矢先に、師匠は出演者全てを舞台に上げて、扇遊師匠に三本締めを託した。余韻は1年半を経過した今でも残る、とタツオさんは書いている。(本書は「水道橋博士のメルマ旬報」で2017年1月~2019年5月までに配信された「サンキュータツオの随筆」を加筆訂正したもの)
その後も2018年3月の「渋谷らくご」まで、左談次師匠は高座に上がった。スケッチブックで説明してからヒソヒソ声で落語をやるという芸人魂で爆笑を取り続けた。最後の高座から一週間後に亡くなった。享年六十七。
文庫本の帯に「あなたにも、思い出す人がいるでしょうか。」とある。タツオさんが書いている。
ほかでもない、自分が語らずにだれが語る、と思える人物に、人生でいったいどれだけ会えるだろう。たまたまこの時代に生まれ、なんの因果か、ほんの少しでも出会っておなじ時間を過ごした者の義務として、語らずにはいられない。
僕も残りの少ない人生において、出会った人たちとの思い出を大切に生きていきたいと思いました。タツオさん、ありがとうございました。