「ヴィクトリア」、そして喬太郎の古典の風に吹かれて

大竹しのぶの一人芝居「ヴィクトリア」を観ました。スウェーデンの映画監督であるイングマール・ベイルマンが1972年に書いた、一人の女性のモノローグ(独白)のみで構成される脚本を舞台化したものだ。もともとは長編映画用に女性のクローズアップのワンショットでの映像化を想定したものだったが、その実験的なアプローチにどの映画会社も難色を示し、映画化が頓挫。1990年にベイルマン自身の演出により、スウェーデン放送のラジオドラマとして初めて陽の目を浴びた作品だそうだ。

現実と幻想の間をたゆたう、ヴィクトリアという一人の女性の人生を、言葉、言葉、言葉の海の中に描いている。

僕は毎日、死んでしまいたいという感情に襲われている。その一方で、このままでは死にたくないという欲望もある。自分の中で両者が格闘している。その果てに、夢の世界に逃げ込むという日常である。そんな僕は、この芝居のヴィクトリアの精神世界に自然と自分を重ね合わせていた。

(STORY)

「ベッドから出たくない…」ある朝、目覚めたヴィクトリアはつぶやいた。カーテンの隙間からこぼれる光が眩しく、頭痛は酷くなってきた。そして、彼女の口からはとめどなく言葉があふれ出る。彼女が今、語りかけているのは誰なのか。メイドなのか、自分に関心のない夫なのか?それとも、孤独を抱えた自分自身なのか?主の心はもはやそこにはない大きな屋敷、空虚な社会辞令が交わされる友人の家、父の書斎に現れた8歳くらいの少女…。時間も場所もうつろいゆく空間を彷徨いながら、彼女は深く深く自分自身の中に降りていく。「現実のない世界なんて存在しない」そうつぶやく彼女が続ける心の旅は何処へ向かうのか―

大竹しのぶさんはプログラムにこう書いている。

ヴィクトリアは頭の中で、自分の過去を振り返ります。「なぜそんな風に考えるの?人生はもっと喜びに溢れているよ」「もっと気楽に考えようよ」と言ってあげたいくらい、突っ込みどころ満載なんです(笑)。でも、生きていくって大変なことですし、何かを掛け違えてしまった人間の弱さを表現できたらと思っています。もしかしたらこれは、誰にでも起こり得る物語だと受け止めてもらえたら嬉しいです。

そうなのだ。誰にでも起こり得る物語なのだ。

演出の藤田俊太郎さんの言葉に深く共感した。

周りの人間にあらゆる影響を与えて生きるヴィクトリアの喜怒哀楽は遠い異国の女性の姿ではありませんでした。今を生きる私たちを鼓舞する言葉がありました。それは、いつの時代も何も変わらない、普遍的で悩み多き日常の私たち自身の姿です。

そう、ヴィクトリアは日常の私たち自身の姿だった。

夜は渋谷に移動して、「喬太郎の古典の風に吹かれて」に行きました。喬太郎師匠が胸の奥でそっと敬愛する先輩師匠をお招きして、芸談や懐かしの楽屋話を伺うシリーズも最終回。ゲストは師匠である、柳家さん喬師匠だ。貴重なお二人の対談の後、喬太郎師匠が「道灌」を演じたのが印象的だった。初心に返るというのだろうか。そして、師弟愛の素晴らしさを強く感じた。

「狸札」入船亭辰ぢろ/「粗忽の使者」柳家喬太郎/「笠碁」柳家さん喬/中入り/対談 喬太郎×さん喬/「道灌」柳家喬太郎

対談は、Twitterでトレンド入り~幼少時代の憧れの芸人~五代目小さんへの入門経緯~小さんの教え~落語界の今後についての熱い思い。さん喬師匠のお話は本当に含蓄のあるものだったが、「誤解を生むといけないので、SNS等へ書くことは控えてください」ということなので、具体的な内容は伏せます。

僕の個人的な感想。この素晴らしい対談を聴くことができたのは、さん喬師匠と喬太郎師匠の「仲の良い」師弟関係があってこそ。さん喬師匠が心の底を語ってくれたことに感謝申し上げます。

そして、今後の落語界のことや後進の噺家さんについて真剣にお考えになっている、その熱い思いに敬意を表します。最後に、五代目小さんの教えに従って、さん喬師匠は喬太郎師匠のことを大切にお育てになったのだということも知ることができ、本当に嬉しく思いました。ありがとうございました。