浪曲映画祭 三波春夫とは何者だったのか

浪曲映画祭三日目に行きました。きょうは三波春夫生誕百年がテーマだ。三波春夫先生が出演している映画「旅笠道中」「雲右ヱ門とその妻」「大利根無情」の3本に、浪曲とトークが挟まった番組構成。僕は三波春夫先生主演の「雲右ヱ門とその妻」(名作!)と天中軒景友さんの浪曲、そして玉川奈々福先生のトーク「三波春夫とは何者だったのか」を観た。

三波春夫 1923(大正12年)―2001(平成13年)。僕の中では、東京五輪音頭、これは東京オリンピックの開催年(昭和39年)と僕の生まれた年が同じだから、後追いで知っている知識だ。オリンピックの顔と顔!そして、世界の国からこんにちは、大阪万博(昭和45年)は僕が6歳のときなのでこれは明確に覚えている。そして、お客様は神様です。さらに、三波春夫でございます。これは友達の間で結構流行ったフレーズだ。

トークをした奈々福先生もリアルタイムでは、キンキラキンの着物で歌を唄っている人、そしてルパン音頭(昭和53年)を歌っていた記憶があると言う。浪曲の世界に入ってから、あの長編歌謡浪曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃」は浪曲のテクニック、要素が全部入っていると判ったそうだ。あと、映画「雲右ヱ門とその妻」で桃中軒雲右衛門をちゃんと演じられる、唯一無二の人だともおっしゃっていた。

新潟県三島郡塚山村(現在の長岡市)の生まれ。本名・北詰文司。ちなみに誕生日の7月19日は奈々福先生と同じだそうだ。本屋、といっても雑貨や文具なども売っていたから、よろず屋稼業の三男坊。6歳のときに母をチフスで亡くした。父は兄や姉、それに文司少年に江差追分などの民謡を教えた。13歳のときに一家は借金を抱えて夜逃げ同然で東京へ出る。

文司は米屋の小僧として働いた。店の人はレコードで浪曲を聴いていたが、虎造節で、新潟では寿々木米若師匠の米若節を聴いていたので文化の違いを感じたそうだ。製麺屋で働いたときは、店主が演芸好きで、演芸会を開き、そのトリで文司が浪曲をうなった。皆からは「文ちゃんは声がいい」「商売人になれるよ」と言われ、米若師匠に入門願いを出したが、人気絶頂の頃で弟子志願者が多く、丁寧な断り状が返送されてきたという。

16歳のとき、働いていた築地の魚市場に「日本浪曲学校」というポスターが貼ってあるのを見て、申し込んだ。9月に入学し、その才能を認められ、10月には初舞台を踏む。「天才少年 南篠文若」の触れ込みで売り出し、17歳で一本立ちした。

21歳のとき、陸軍に入隊し、満州へ。終戦しても、26歳までシベリアに抑留されていた。そこでも演芸を披露するが、外国人には浪曲は受けず、その代わり民謡が受けた。その頃から、歌は人を励ます、歌の力ということに気付いたという。

昭和24年、帰国。すぐに新潟県内を浪曲で廻った。個人宅で披露することも多かったそうだ。そこを足掛かりに全国巡業をする。29歳で三味線弾きの野村ゆきと出会い、結婚。ゆきが合三味線として二人三脚で活動した。ちなみに、ゆきに浪曲の三味線を教えたのが、沢村豊子師匠だそうな。ヘエー!

南條文若は戦争体験から、国は酷いことをした、戦争とは悲惨なものだ、それを浪曲で啓蒙したいと活動した。だが、そういう浪曲は「おっかない」と受け止められ、歌をやっておくれと言われたという。浪曲にそういうものは求められていないのだ、ということを肌で感じたそうだ。

そして、浪曲は滅びていく芸かもしれない、人々を鼓舞できるのは歌かもしれないと思うようになる。さらに、家内制手工業の限界も感じた。同じ浪曲出身の村田英雄が酒井雲という師匠がいたのに対し、自分には師匠がいないというのもハンディキャップに感じていた。そこで、昭和29年に浪曲に見切りをつける。

歌のレッスンをし、昭和32年にテイチクレコードのオーディションに合格、三波春夫としてデビューを飾る。その年に「チャンチキおけさ/船方さんよ」がヒット。紅白歌合戦から出演依頼が来るも、仕事が入っていたために断った。

昭和34年には「大利根無情」「忠太郎月夜」「一本刀土俵入り」とヒットを重ね、浪曲をバックボーンにした歌謡路線で人気者になる。和服で歌うというのは男性歌手では三波春夫が最初だそうだ。三波春夫スタイルが確立されていった。衣裳や所作は妻であるゆきがプロデュースしていた。

昭和35年に大阪の新歌舞伎座で座長公演、芝居と歌謡ショーの二本立てを28日間連続昼夜公演という快挙だ。翌年からは1月に名古屋御園座、3月大阪新歌舞伎座、8月東京歌舞伎座、それぞれ1カ月興行というパターンをスタート。これが20年続いたというからすごい。映画「雲右ヱ門とその妻」もその頃の作品だ。

昭和38年、東京五輪音頭。8社競合で400万枚売れたが、そのうち250万枚は三波春夫バージョン。昭和39年、「元禄名槍譜 俵星玄蕃」。構成、作詞、節付けも自らがおこなっている。50代からは音頭モノを数多く手掛けた。昭和62年、64歳で紅白歌合戦を卒業。

昭和59年の東京宝塚劇場での「放浪芸の天地」は、三波春夫の研究者としての側面を垣間見る公演だ。彼は北村桃児という名前で「歌藝の天地~歌謡曲の源流を辿る」「真髄三波忠臣蔵」といった著作を出している。幼少期から培った浪曲や民謡を根っこに、歌謡曲にとどまらない“日本の歌”に関する考察をする学者的気質を持った人でもあったと奈々福先生は力説していた。

そして、歌手という立場で、「浪曲」の二文字を要素として残してくれた、浪曲界にとっての恩人だと。明治から大正にかけての大看板であり、“浪聖”とも謳われた桃中軒雲右衛門の役を演じるに相応しい人物であることを再認識した。