トークイベント 吉田玉助と国立劇場
蔦屋書店銀座店で開かれた「さよなら初代国立劇場記念トークイベント 吉田玉助と国立劇場」に行きました。国立劇場が今年10月で閉場する。それに因んだトークイベントで、第1回は歌舞伎俳優の坂東亀蔵丈がゲストだったそうで、きょうはその第2弾。歌舞伎や文楽などの舞台写真を手掛けている写真家の小川知子氏が聞き手となって、玉助さんに貴重なお話を伺い、とても興味深い内容だった。
5月と9月で、国立劇場小劇場で「菅原伝授手習鑑」が全段通しで上演される。これは51年ぶりのことだそうだ。多分、さよなら公演ということもあるのだろう。5月、玉助さんは二段目で宿禰太郎を遣う。明日からの本番を前に、きのう、きょうと国立劇場で稽古をして、それが終ってから銀座にやって来たそう。因みに第3部の「夏祭浪花鑑」でも、一寸徳兵衛を遣うから、ハードスケジュールだ。
「菅原伝授手習鑑」は文楽の演目の中でも、やはり特別な演目だそうで、菅丞相がお祀りされ、先代玉男師匠は「精進潔斎しないといかん」と言って臨んだそうだ。国立劇場では5月に初段と二段目、9月に三段目、四段目、五段目が上演される。
ところで、玉助さんと国立劇場は同い年である。昭和41年、1966年生まれ。57歳。昭和55年に父である吉田玉幸に入門し、翌年4月に朝日座で初舞台を踏んだ。12月に国立劇場にデビュー。文楽鑑賞教室で「仮名手本忠臣蔵」六段目、勘平切腹の段、駕籠屋の足遣いだ。駕籠屋は2人で、それぞれ三人遣いだったから、すごい窮屈。その上、玉助さん(当時は幸助)ともう一人の足遣いの若手が飛び抜けて背が高く、「邪魔や」と言われたそう。「お米を横に食え」と言われたとか。それで背が縮むとは思えないけどね。
床の太夫と三味線は稽古をしているのを見たことがあるが、人形遣いの技芸員が稽古をしている現場を見たことがないと小川氏が尋ねると、何と三人(主遣い、左遣い、足遣い)一緒の稽古は、本番前の舞台でしかしないのだとか。ビックリ!音源を聴きながら、家でテレビのリモコンを人形代わりに、遣う真似というか、その気分になって動きの稽古をするのだそうだ。イメージトレーニングと言うのだろうか、本物の人形を遣えないだけ、自分の想像力が試されるわけだ。
あと、最近の若い人形遣いはあまり質問をしてこないと玉助さん。パソコンを見て学んでいる。DVDを観て学んでいる。それで実際に自分(玉助さん)の足遣いが出来るのか?と言ったら、出来ない。もっと訊いてきてほしいし、生の舞台を観て学んでほしいと。楽屋を温めていては駄目だとよく言われるが、実際舞台袖で生を観るのが一番の勉強になると。
国立劇場での思い出を訊かれ、45周年のときに寿式三番叟の翁を遣ったことが嬉しかったそうだ。写真家の小川氏から見ると、玉助さんや一輔さんは形が良いのだという。踊りの稽古をなさっているのでは?と思ったら、案の定そうだった。そうした隠れた努力をなさっているのだ。
そして、平成30年の幸助改め吉田玉助襲名。自分で「もう襲名しても良いかもしれない」という思いがあり、周囲には「まだ早い」という声もあったが、祖父の名跡である玉助を5代目として襲名した。(父の玉幸さんが平成19年に亡くなっていたため、4代目追贈)。このとき、後ろ盾になってくれたのが、蓑助師匠だ。手紙を書いて、「玉助を襲名したい」旨を伝え、「名前が人を作る」とお許し頂いた。もし、少しでもタイミングが遅ければ、コロナ禍で襲名を逃していたかもしれないと。
その襲名披露には、写真家の小川氏も思い出があるという。「本朝廿四孝」を上演し、玉助さんは山本勘助を遣ったのだが、和生さんが女房お種、勘十郎さんが勘助の母、玉男さんが直江山城之助を遣い、センターに玉助さんという写真を文楽カレンダーの写真にしてほしいと進言した。カレンダーの写真はベテラン、いわば格上の人が優先で、若い技芸員の写真が使われることは滅多にない。駄目で元々と、各師匠のところに打診したところ、快諾して頂いた。思い出の一枚だと言って、スクリーンに映し出していたのが印象に残った。
この披露興行では、勘助の母を後半、後ろ盾になってくれた蓑助師匠が遣ってくださった。なのに、披露目が終ってから、御礼をするのは稽古のときでいいだろう、心が通じているからと勝手に思いこんで暢気に構えていたら、蓑助師匠の奥様からお叱りの電話を受けてしまった。慌てて、御自宅に菓子折りを持ってお詫びに行った。そんな大ポカも苦い思い出として、こうして公の場で喋れる玉助さんの明るい性格が大好きだ。
蓑助師匠の関連で言うと、若手勉強会をご覧になって、「幸ちゃん(当時の幸助さん)は文楽の二枚目ができるな」とおっしゃって頂いたのは、今でも宝物のように大事にしている言葉だという。人形遣いは見て覚えろが基本だが、そのときには「わしが教えよか」と蓑助師匠自らが直接指導なさったという。将来性を見込まれた玉助さんならではのエピソードだ。
印象に残った言葉で、「チャンスは自分で掴め」。勘十郎師匠が襲名披露のときに、「絵本太功記」を上演し、光秀を遣ったが、その左遣いを幸助さんに「いけるか?」と訊き、喜んで引き受けた。以来、なかなか左遣いのチャンスが得られなかった幸助さんに、どんどん左遣いの仕事が舞い込むようになったという。平成15年のことだ。足遣い10年、左遣い15年、そしてようやく主遣いという世界だから、何でも意欲的に取り組んでいかないといけないということだろう。
聞き手の写真家・小川知子氏も素敵だと思った。芝居が好きで舞台写真を撮るようになった、そこは写真が好きで舞台写真を撮っている人と違うところだ。舞台の人たちの身になって写真を撮るということだという。写真のための写真では駄目で、あくまで文楽のための写真でなくてはいけない。だから、(先代)玉男師匠や、蓑助師匠に個人的に、「この写真で良いか」を確かめたという。あくまで、個人的なことだけれども、と断っていたが。それはすごく重要なことだと思った。有意義なトークイベントだった。