志の輔 最後のサンプラザ

「志の輔 最後のサンプラザ」に行きました。中野サンプラザが7月2日をもって閉館する。昭和48年オープンだから、ちょうど50年でその幕を閉じることになる。僕は小学校6年生のとき、昭和51年に当時通っていた進学塾「四谷大塚」の卒業式がここでおこなわれ、出席した記憶がある。懐かしいなあ。

音楽の聖地。立川志の輔師匠はオープニングトークで自分の音楽遍歴を語ったのが興味深かった。人生で最初に買ったレコードがベンチャーズの「10番街の殺人」で(当時300円)、日本人アーティストとしては加山雄三の「夜空の星」と「君といつまでも」のカップリングだそうだ。で、中学生の時、ベンチャーズが富山に来て、初めて音楽ライブを体験。その後、グループサウンズに傾倒し、作文で「将来はグループサウンズになりたい」と書いて、職員室に呼び出され、先生に書き直しを命じられたとか。グループサウンズ=不良だった。

その後、ビートルズに憧れ、そのマッシュルームカットのポスターを地元のレコード屋で見とれていたら、また近所のおじさんに「不良になりたいのか」と言われたそう。大学進学で東京に出て、モップスの解散コンサートを聴きにいったが、会場が中野サンプラザだった。19歳のときだそうだ。吉田拓郎や井上陽水、そしてジャズを聴くようになった。

大学時代、クリスマスとは無縁の暮らしをしていたが、唯一の思い出として、クリスマスの日に友人がビートルズの2枚組アルバム「ザ・ビートルズ」、通称ホワイトアルバムを持ってきて、一緒にサントリーレッドのコーラ割りを飲みながら聴いたが、泥酔してしまって、「ホワイトアルバムが茶色に染まっていた」(笑)。

20歳で山下達郎の音楽(アルバム「サーカスタウン」が出るちょっと前)に出会い、山下達郎が落語好きということもあったのか、縁がつながり、毎年達郎さんの中野サンプラザのコンサートに行き、二人で鰻を食べたりする間柄になったとか。その達郎さんが「最高のホール」と絶賛する中野サンプラザで志の輔師匠が「最初で最後の独演会」を開催することに特別な思い入れがあるという。ちなみに、中野サンプラザ最後の公演、7月2日は山下達郎コンサートである。

オープニングトーク 立川志の輔/「たけのこ」立川志の輔/中入り/三味線演奏 和力/「新八五郎出世」立川志の輔

「新八五郎出世」は、色々なホールのこけら落としを担うときに志の輔師匠がよく演じる演目だ。おめでたい噺として掛けるのだと思うが、そういう意味でも、中野サンプラザ50年お疲れ様!という意味合いをこめたのだろう。ちなみに、客席と一緒に三本締めで終演した。

八五郎が殿様にお目見得したときに、お目録は要らないよ、50両貰っても困っちゃう、江戸っ子は宵越しの金を持たないというところが良い。それよりも質屋に入れた道具箱を請け出してくれないか、そうしたらまた自分の腕で稼ぐことができるから、伊勢屋だよ、知らない?と殿様に頼むのが愉しい。

そして、八五郎を送り出した母親を思い出し、さっきの頼みを取り下げて、お願いがあるんだ、おふくろに初孫を抱かしてやってくれないか、と掛けあう。初孫だ!初孫だ!と浮かれていたけど、「自分の孫を抱いたり、おぶったりできないのは、身分の違いとはいえ、淋しい」と言っていたのを思い出したのだ。母親思いの八五郎である。

さらに、妹のお鶴が殿様の横にいるのを見つけると、お世継ぎを産んだからと言って偉そうにしてちゃ駄目だよ、周りの人たちに可愛がられなきゃいけない、嫌われて、苛められたらいけないと忠告する兄貴らしさが良い。で、もしそれでも苛める奴がいたら、兄ちゃん、便所の紙を全部隠しちゃう!とするのも愉快だ。

これを聞いていた殿様は大層、八五郎が気に入り、「面白い奴じゃ。士分に取り立てるぞ」と言うが、八五郎は侍になんかなりたくない。おふくろを独りにすることはできないと言うと、殿様がおふくろと一緒に屋敷にくればいいと言う。だが、おふくろは井戸端がないと駄目なんだ、井戸だけじゃ駄目だよ、井戸の周りにいる近所の連中も含めた井戸端、その井戸端ごとおふくろが来たら、殿様嫌でしょう?と八五郎は訴える。この庶民感覚が素敵な「八五郎出世せず」の一席は、志の輔師匠ならではの高座である。