大人計画「もうがまんできない」、そして一之輔のすすめ、レレレ

本多劇場で、ウーマンリブvol.15「もうがまんできない」を観ました。本当は2020年4月に公演予定だった同名の芝居が、コロナ禍の影響で中止となり、無観客収録されたものがWOWOWにて放送された。残念ながら僕はその放送は観ていないが、今回、若干のキャスト変更はあったものの、こうやって3年後に上演されたことを嬉しく思った。

プログラムの冒頭で、作・演出の宮藤官九郎さんはこう書いている。

宮藤です。幾度となく考えました。もし3年前の「もうがまんできない」が無事に初日を迎えていたら、どうなっていただろう。(中略)昨日はウケなかったけど、ネタを変えたら今日はウケた!もはやその快感のためだけに演劇をやっていると言っても過言ではありません。映画やドラマに関われば関わるほど、ウケが恋しくなる。お客さんの笑顔と笑い声。このご褒美なかりは生の舞台でしか得られないもんな。やっぱり舞台やりたいな。笑い声を浴びたいな。客席じゃなくて、袖から見たいな。

この快感を僕らに教えてくれた松尾スズキさんと、そして慣れないコントに漫才に全力で取り組んでくれた柄本佑くん、要潤さんと、日々ウケたりウケなかったりで、共に一喜一憂できなかったことが残念で仕方なかった。(中略)

3年前の台本は、やっぱりちょっと古かった。自分の役を含め、設定や台詞に若干の変更を加えました。そう簡単にラクはできないもんだな。(中略)今、とにかく稽古が楽しい。俺だけかもしれないけど。毎日マスクの下で笑っている。いや、みんなも、口元は隠れてるけど笑ってるはずだ。もうがまんしなくていい、ですよね。

果たして宮藤さんの3年後の「もうがまんできない」は相当に面白かった。2時間5分、休憩なし。笑いっぱなしだった。その笑いというのは、松尾スズキさんとも相通じる、宮藤官九郎さん一流のユーモアで、ただ笑わせている、その場が可笑しければいい、という笑いに見せかけておいて、その実、今の世の中を笑っている。それは社会批評とか、そんな小難しいことではないんだけど、笑いのエッセンス一つ一つに、現代社会を生きる生身の人間の矛盾だったり、怒りだったり、絶望だったり、喜怒哀楽が繊細に埋め込まれている。「ふざけている」ことにちゃんと意味を持たせている。それが大人計画のイズムなのかも、と僕は勝手に思っています。

そういうことも含めて、宮崎吐夢さんが「吐夢の小部屋」と題して、プログラムの中に掲載されている宮藤官九郎さんとの対談が興味深かった。演劇の現在について、ちょっと憂いているところ。

吐夢 とにかく「上から」みたいなスタンスの発言を極力、抑制、廃除しようとする風潮はあるんじゃないですか。

宮藤 「ダメ出し」って言っちゃいけないみたいな?「気づき」とか「ノート」だっけ?まあ今、「ダメ出し必要だよ」とは、「そういうのが嫌」という人もいる以上、言いづらいし、旧態依然のものを主張する気はないけれど。こちら側がいちいち「それは今の空気感において正しいか正しくないか」を気にしなきゃいけないストレスはどうにかしてほしい。

吐夢 Twitterの観劇感想も、出演者が終演直後に早速エゴサーチ前提だから、率直な感想なんか呟けないですよ。

宮藤 昔はよく、観に来た知り合いに、楽屋で結構辛辣なダメ出しされたじゃん。

演劇に限らず、コンプライアンスとパワーハラスメントは表現活動(ジャーナリズムも含め)において、相当慎重に対処せねばならない時代にはなった。だが、そのことばかりに臆していては、優れた表現は生まれないのも確かだ。今回の「もうがまんできない」は、やはり生の舞台だから成立する表現手段であると考えると同時に、だからこそ、これから将来もこういった作品が躊躇いなく創造されていくことを望むのである。

夜は中野に移動して、「一之輔のすすめ、レレレ~春風亭一之輔独演会~」に行きました。「芋俵」「癇癪」「子は鎹」の三席だ。

「芋俵」は前座さんでも演る人がいるが、一之輔師匠にかかると一味も二味も違う。第三の男、松公が俵に入る表現から笑わせてくれる。あのチクチクする感じとか、俵の大きさとかもこれによって伝わってくる。それで木綿問屋までの道中、付いてきた犬に俵から手を出して、ちょっかいをすると、犬に噛まれて、中指が千切れてしまうというのが可笑しい。それと、木綿問屋の定吉が“芋俵”をサンドバック代わりにして、パンチを見舞うのも笑った。

「癇癪」は難しい噺だ。亭主関白がただ怒鳴り続けているだけでは、聴き手に嫌悪感を持たせてしまう。そこにユーモアを交えるのが師匠は巧い。そして、実家に静子が帰ったときの、父親の「人を使うは、使われろ」の言葉が重く響く。これによって、お前の亭主は会社では社長として沢山の社員を上手く使わなければいけない、そういう気苦労があるのだから、家ぐらいはお前が女中や書生と役割分担をして優しくもてなしてあげなさいという…。

これで上機嫌となった亭主のサゲの言葉「これでは怒鳴ることができんではないか!」の前に、「静子、よく帰ってきてくれた」の一言が添えてあったのがとても良いと思った。

「子は鎹」は、亀を挟んで、夫だった熊さんと女房だったお徳の両方が、お互いに別れても思い合っている様子が窺えて微笑ましい。お父さんは悪くない。恨むなら、酒を恨みなさい。だから、おっかさんは縁談が舞い込んでも、一切断り、亀を女手ひとつで育てる覚悟でいたのだなあと思う。

酒に関しては、熊さんは言い逃れできない立場だが、女房子を追い出して、吉原の女郎ともうまくいかずに、ようやく気が付いた。酒をやめよう。亀の突っ込みは鋭い。「もう少し前に気づいていたら良かったのに。今頃気づいて」。でも、小遣いに50銭も貰って言う言葉がいい。「人間、苦労すると丸くなるんだな」。

熊さんの方も、酒の勢いで三行半を突き付けてしまったことを後悔し、自分を責めている。亀が友達とチャンバラごっこして、額に傷が残ってしまった件でも、「皆、お父っあんが悪いんだ。よく我慢したな。勘弁してくれ」。その姿勢は、鰻屋の二階で、お徳と再会したときも変わらない。平身低頭、女房と子供に苦労をかけてしまったことをひたすら詫びる。

亀の言葉が沁みた。学校の先生が言うんだ。両親に健やかに育てて貰っていることに感謝しなさい。そして、親孝行するのですよ。だけど、お父っあんがどこにいるかもわからないと親孝行もできない。親孝行しやすくしてくれよ。

この言葉が熊さんとお徳の両方に刺さり、もう一度、三人で元の鞘に戻って、やり直そうと思うのだ。だからこそ、子は夫婦の鎹なのだと思った。