田辺いちか独演会、そして鈴々舎馬るこ勉強会

田辺いちか独演会に行きました。「井伊直人」「姫君羊羹」「敵討母子連れ」の三席。「初心に返って」と言って、まずは「井伊直人」。この男、と見込んだ妻のお貞が、賭け碁に興じて堕落している夫を発奮させる了見が素晴らしい。夫と立ち合いの勝負をして、全く隙がないお貞の薙刀の腕が見事だ。直人は三度も江戸の柳生飛騨守の道場で修行のやり直しをしなければいけなかったのだから、これぞ妻の鑑と言えるのだろう。逆に言うと、直人の才を見抜いていて、その怠け癖を直すための荒療治を、心を鬼にして実行したお貞は天晴れである。

「姫君羊羹」はいわゆる擬古典作品だが、この話は女性が読むことを前提に作られたのだろう。伊勢屋から10日に一度届く羊羹を巡る幼い姉妹の諍い。長女の薫姫の性格はきっちり、次女の弥生姫の性格がざっくりしているという対照が面白い。

羊羹を平等に半分に分ける役割を薫姫が担って、その半分のどちらを選ぶかは弥生姫が担う。薫姫はいつも“もやもや”が残って、「長女はいつも損!」と嘆くのは、「兄弟あるある」で共感してしまう。そして、最終的な解決法は「禁断の羊羹丸かじり」だった!という…。ユーモラスな読み物に仕上がっているのが素敵だ。

菊池寛原作「敵討母子連れ」、心に沁みた。血気盛んだった浜村佐兵衛が、些細なことを恨みに思い、高木主馬に果し合いを申し込むが、浜村は敗れ、死んでしまう。喧嘩両成敗で、両家がお取り潰しになってしまうが、浜村の妻の松は遺恨に思い、息子の竹之助とともに仇討の旅に出る…。

元来、竹之助は武術よりも学問を好み、優しい心の持ち主。それが仇討を母に課せられて、16歳のときに労咳になってしまう。療養のため、心静かに釣りでもしていなさいという医者の助言もあり、隅田川で釣り糸を垂れる。いつも隣に座って釣りをしている老武士と心の交流をするが、実はこの老武士こそ父の敵の高木主馬だった…。

竹之助が千住大橋で川に落ち、命を落としそうになったときも、その老武士が助けてくれた。だが、母の松は「敵から恩を受けるとは!」と感謝どころか憎しみが増して、竹之助に仇討を命じる。

「あなたは優しい眼差しをしている。まるで我が子のように思っていた」と言う高木に対し、竹之助も「あなたの傍にいると実の父に抱かれているように思っていた」と返す。「とても斬れません」という息子に痺れを切らした母・松は中間の元八とともに高木に襲いかかる。

そして、最後は高木と竹之助は相討ちとなる。あの世でも、お互いに友でいましょう、三途の川で一緒に釣り糸を垂れましょう、と二人は果てる。天国に逝っても、心の交流は続くのだろう。仇討が美徳とされた時代のアンチテーゼのようなメッセージが籠められた、素晴らしい読み物だ。

帰宅して、配信で鈴々舎馬るこ勉強会「まるらくご 爆裂ドーン!」を観ました。「喧嘩の仲裁」と「明烏」の二席。「喧嘩の仲裁」は、明治40年に書かれた、ある落語本を基に、設定を現代に置き換えて、馬るこ師匠が拵えた作品だそうだ。

大学のサークル、江戸文化研究会に入ろうとした田中は、その部長、サークルでは“親分”と呼んでいるそうだが、に与太郎と名付けられ、体験入部する。部員の熊と八は親友だけど、仲違いをしてしまった。八が女の子にもてたいと軟派なサークルに入ろうとしているのが許せないという熊。その喧嘩の仲裁を親分が買って出て、二人別々に口説いて、蕎麦屋の二階で手打ちにする。その手法が江戸前でカッコイイと思った与太郎は、ある夫婦喧嘩を同じ手法で仲直りさせようとして大失敗…。寄席の15分高座で重宝しそうな一席に仕上がっていると感心した。

「明烏」は、日向屋の時次郎の人物造型が面白かった。単なる堅物ではない。最初は、吉原なんて汚らわしい!と嫌な顔をしていたが、それは初心だったからではなかった。父親の遊び人の血が流れているから、遠ざけていたのだ。染まってしまうのが怖かったのだ。それが証拠に、孔子や孟子の本を読んでいるが、その本の間に春画を挟んでいたと吐露している。

源兵衛が「お好きなんでしょう?」と女郎たちが並んでいる格子に、時次郎の顔を押し付けると、時次郎の禁欲の殻が破れそうになり、「ここまで抑え付けてきたのに!」と号泣する。酒も「飲まない!」と激しく拒んでいたのに、無理やり飲まされると豹変し、花魁に向かって「襦袢はどんな色しているの?・・・その奥はどうなっているのかなあ?」とスケベ心丸出しになってしまうのが可笑しい。

浦里の部屋では、時次郎が「そういうことだったのか!今までは、こういうことのために我慢していたんだ!」と叫び、女の「嘘!やめて!」という声が聞こえてきたという…。時次郎の禁欲が解放された噺として描かれたのが、とても馬るこ師匠らしいなあと膝を打った。