神田松鯉「水戸黄門記 雁風呂由来」、そして松鯉・琴調二人会

国立演芸場三月中席八日目に行きました。中入り前に上がった桂小南師匠が、寄席の魅力は生のお囃子があることだ、と言って、ご自分の出囃子「野崎」をもう一度弾いてもらった。きょうのお囃子は祥子師匠。1993年5月に落語芸術協会に入り、今年の4月30日いっぱいで引退するのだそうだ。丸30年、寄席の裏方として重要な役割を担ってきた。それを労う小南師匠が素敵だった。そして、自分の師匠、先代の桂小南が得意とした「鼻ねじ」を鳴り物入りで演じた。粋な計らいに拍手を送った。

「平林」桂南海/「悋気の独楽」桂南馬/「佐野山」三遊亭遊馬/漫談 新山真理/「鼻ねじ」桂小南/中入り/「寛永三馬術 出世の春駒」神田阿久鯉/「皿屋敷」三遊亭圓丸/音曲 桂小すみ/「水戸黄門記 雁風呂由来」神田松鯉

松鯉先生、素敵な高座だ。一つ目の素敵は、水戸光圀と淀屋五郎の出会いだ。光圀公が松雪庵元起と旅する途中に寄った一膳飯屋で見つけた古びた衝立。大きな松の木に数十羽の雁が止まっている絵が描かれている。これは誰が描いたのか?この絵の意味は何なのか?それを傍にした若い商人風の男が詳しく説明する。あまりに詳しいので、名前を尋ねると、大坂北浜の淀屋辰五郎の二代目だった。結果、彼が柳沢吉保によって不遇な目に遭っていたのを光圀公が救ってあげることになる。

二つ目の素敵は、この衝立に書かれた絵解きである。つまり、雁風呂の由来だ。蝦夷地に生息している雁は冬になると、餌を求めて津軽の海を越え、奥州外ヶ浜にやって来る。その津軽海峡越えのとき、雁は木の小枝を口に咥え、疲れるとその小枝を海に落とし、枝の上に止まって休息する。そして、また休息を終えると、小枝を口に咥え、飛んで行く。その小枝は外ヶ浜の浜辺に捨てて、東北の各地に旅立つ。

そして、また蝦夷に戻るときに、その小枝を口に咥え、津軽の海を越える。だが、途中に病気で死んでしまったり、猟師に捕獲されてしまったりした雁の分の小枝が山のように積まれている。村人はその小枝を集めて、火をおこし、湯を沸かして、風呂に入る。これが雁風呂、雁供養で、その故事を絵にしたのが、あの衝立なのだ。村人が亡くなった雁を供養してあげるというのが、素敵じゃないか。

最後に、三番目の素敵は、松鯉先生がこの読み物の中に挿入する、大津絵についてのエピソードだ。小泉信三は、古今亭志ん生を座敷に呼んで落語を一席やってもらうときに、必ずその前に大津絵節を歌ってほしいとリクエストしたという。戦地に赴き、戦死した一人息子の信吉のことを思い、小泉はいつも志ん生の大津絵を聴いて、涙したという。

冬の夜に風が吹く しらせの半鐘がジャンと鳴りゃ これさ女房わらじ出せ 刺子襦袢に火事頭巾 四十八組おいおいに お掛り衆の下知をうけ 出て行きゃ女房はそのあとで うがい手水にその身を清め 今宵うちのひとにはなあ 今宵うちのひとに怪我のないように 南妙法蓮華経 清正公菩薩 ありゃりゃんりゅうとの掛け声で勇みゆき ほんにおまえはままならぬ もしもこの子が男の子なら おまえの商売させやせぬぞえ 罪じゃもの

夜は人形町に移動して、神田松鯉・宝井琴調二人会に行きました。松鯉先生はお馴染みの「徳利の別れ」と、おととい(16日)に国立演芸場で聴いた「男の花道」だったので、琴調先生の二席についてちょっと書きたい。

「塚原卜伝 小太郎生い立ち」宝井小琴/「於竹如来」田辺一記/「青葉の笛」田辺いちか/「赤垣源蔵 徳利の別れ」神田松鯉/「宇喜多秀家 配所の月」宝井琴調/中入り/「浅妻船」宝井琴調/「男の花道」神田松鯉

琴調先生一席目、関ヶ原の合戦で敵味方に分かれて戦った、福島正則と宇喜多秀家の関係が素晴らしい。福島は広島の大大名となり、将軍家に名酒100樽を贈る立場の男。一方、宇喜多は八丈島に島流しになった身分だ。

酒樽を船で運搬する役目を担った大兼金右衛門が、八丈島に上陸し、ボロボロの身なりをした男と出会う。それが宇喜多だった。お互いの素性を明かすと、宇喜多は懐かしがり、大兼もしみじみと感じ入る。そして、将軍家に贈るはずの酒樽を開け、酒をふるまう。宇喜多は改めて、自分のみじめな姿に涙する。

大兼は船を江戸に向かわずに、広島に引き返し、このことを主君の福島に報告する。福島も哀れに思い、家康公に赦免を求める手紙を書く。すると家康も、赦免はできないが、宇喜多に500石の所領を与え、八丈島で安楽に暮らすよう配慮してあげる。

宇喜多は岡山に住む家族を八丈島に呼び、幸せに暮らすとともに、罪人が八丈島に流刑されると、善の道を説いて、改心させたという。

人間の幸福とは何か。そして、敵味方に一度別れても、お互いに通じ合うことができるという人間の素晴らしさについて考えた。

琴調先生二席目、これまた島流しの読み物だ。画家の多賀朝湖が吉原で拾った一本の扇。そこに描かれた、貴人と白拍子姿の一人の女性が湖上で舟に乗っている絵が運命を決める。

朝湖は、宝井其角の提案もあり、その絵をヒントに絵草紙を描く。これが飛ぶように売れ、評判を取ったが…。その絵が、将軍綱吉と柳沢吉保の妻おさめを表しているのではないかと噂が立ち、朝湖は幕府を愚弄しているという罪で、三宅島に流されてしまう。

責任を感じた其角は、朝湖の母親の面倒を見た。そして、本来だったら許されない三宅島から手紙を送ることの許可を幕府から得る。朝湖の句「初鰹からしが無くて涙かな」。これを受けて、其角は「そのからし聞いて涙の鰹かな」。こういった江戸と三宅島のやりとりが続き、最終的には朝湖は江戸に戻ることができたという…。

朝湖と其角の間に流れる男の友情に痺れた。