演劇「ケンジトシ」、そして林家きよ彦独演会

シアタートラムで「ケンジトシ」を観劇しました。劇作家の北村想氏が宮沢賢治の作品と膨大な関連資料を読み込み、そこにご自身の想像(創造)と空想をたっぷり加えた作品である。

95分間の芝居を観終わった後の率直な感想は「ワカラナイがいっぱい」。これに関して、プログラムの中で、演出を担当した栗山民也氏が語っている。

劇中「わからない」と、何度も言葉にする登場人物たち。賢治は「わからない」ことを敢えて見つめ、学び、思考することをはじまりとし、世界を広げ、出会いの機会にすらしていった人だ。だから彼の作品世界には、どんな差異にも隔てられず、「みんな」が集える広場が描かれるのだ。

ケンジ役の中村倫也が「台本には第四次延長の物語とあって、何のことかわからない」と笑う。トシ役の黒木華も栗山さんの「答えを渡すものではない。ケンジは“わからない”を大事にした人だから」の言葉を聞いて安心と同時にワクワクしてきたと笑う。ホサカ役の田中俊介も「わからないところに魅力がある。考えることをやめないで欲しい」という栗山さんの言葉に、純粋に物事に対する興味、探求心を持って動けたらいいのかなと語る。

そうなのだ。僕は95分間、ずっとケンジ、トシ、そしてイシワラ、ホサカたちの台詞と動きに必死に食らいついて、「わからない」と格闘した。そして、最後に僕の心に残ったのは「何だかわからないけど、心に沁み入っていく心地良さ」だった。

イシワラを演じた山崎一の言葉に膝を打った。

純粋にユートピアを望むケンジと、人を救い世を変える手段としての「戦争」を唱えるイシワラ。そしてケンジを映しながら、兄とは異なる強靭な意志と共に己の思想を語るトシ。三人それぞれの発する言葉や想いが結び合い、夜空に架かる星座のように形を成す。その美しい様をお客様と共有できるような舞台になればと心から願っています。

「その美しい様」を共有できたから、僕は心地よさを持って劇場を後にできたのだと思った。

夜は日暮里に移動して、林家きよ彦独演会に行きました。彦いち師匠から「お前には誰も古典を求めていないから」と言われ、ひたすら新作落語を創り続けるきよ彦さんは、すでに40~50作ほど創ったという。2016年に入門、2021年に二ツ目に昇進したばかりだから、かなりのハイペースである。頼もしい。

一席目「追っかけ家族」は頻繁に掛けている自信作のようだ。高校教師があるアイドルグループの握手会に参加している。それはメンバーのイチゴちゃんに会うためだが、彼は別にイチゴちゃんのファンではない。

自分の担任する生徒の両親が忙しく、家庭訪問が出来ないために、母親の職場に出向いたのだった。そう、その母親がイチゴちゃんというわけだ。CD30枚を買って、ようやく会えた母親に生徒の家庭での様子を色々と質問するのだが…。担任教師と母親の噛み合わない会話が面白い。そして、父親は…。意外な展開が愉しい高座だ。

二席目「お母さん」は今回、ネタ卸し。父親は「隙間産業こそ、儲かる」と言って、転職を繰り返している。そして、今度見つけてきた仕事というのが、“お母さん”というからビックリだ。男女雇用機会均等法、SDGsのこの世の中、“お母さん”業が国家公務員となるという発想がきよ彦さんらしくて面白い。

折角の娘の学校の運動会にも、業務のために行けないと謝るが、何とその依頼は娘の同級生の男の子の“お母さん”として運動会に参加することだったという…。奇想天外なストーリーながら、現代のエッセンスをきちんと織り込んでいるところに、キラリと光る創作センスを感じた。

三席目「うちの村」は随分前に創った初期の作品とか。山奥の田舎の村から東京に出てきて就職したOLの主人公は、久しぶりに会った同郷の友人を「予約のなかなか取れない人気のパンケーキ屋」に連れて行くが、友人は「この店だったら、うちの村にもあるから知っている」と言われる。

祖母危篤の連絡があり、彼女は久しぶりに故郷に帰るが、村はすっかりと様変わりしていた。村おこしの為に温泉を掘ったら、何と石油が出てきて、今では日本政府では対応できずに中東とやりとりするほどに裕福になっていたのだ!学校の帰りに寄り道したよろず屋は64階建てのビルとなり、よく遊んだゲームセンターは大規模カジノ施設に…。

ネットがこれだけ発達し、どんな山奥にも情報は行き届く世の中。地方の女子が東京に憧れる時代はもはや終わったと言ってもいいのかもしれない。そんな皮肉を落語に落とし込むきよ彦さんの創作の才能を垣間見た気がする。