奈々福、独演。~銀座でうなる、銀座がうなる~

観世能楽堂で「奈々福、独演。~銀座でうなる、銀座がうなる~vol.4」に行きました。二日間公演で、きのうは「鷹は飢えても、稲穂は摘まぬ!」と題して、トークゲストに高橋英樹さんを迎えての会。きょうは「あたしはこれで、幸せなんだ」と題して、トークゲストは高田文夫先生だ。

「小田原の猫餅」玉川奈みほ・沢村まみ/「浪曲百人一首 能楽堂編」玉川奈々福・広沢美舟/対談 高橋英樹×玉川奈々福/中入り/「赤穂義士外伝 俵星玄蕃」玉川奈々福・広沢美舟

奈々福先生の一席目、百人一首の五七五七七を浪曲の七五調に巧く乗せて、オムニバス形式で取り上げ、現代の男女の人間模様の機微に重ね合わせた自作。今回は、百人一首の編纂者である藤原定家の歌をアンコに入れ、深みのある高座に仕上げていた。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身もこがれつつ。定家は後白河天皇の娘、式子内親王に恋をしてしまう。許されぬ恋ゆえ、余計に燃え上がる。その伝説は能の「定家」にもあり、また植物のテイカカズラの名前の由来でもある。定家の激しく燃える恋心が能楽堂に響いた。

二席目は赤穂義士伝の中でも、架空の人物を扱った浪曲だ。三波春夫の歌謡浪曲でも有名な槍の名手、俵星玄蕃。蕎麦屋に身をやつした赤穂浪士・杉野十平次と玄蕃の心の交流を描いている。上杉藩の仕官を断って、赤穂浪士を応援したいと考える玄蕃は知らぬふりをして杉野の暇乞いを聞くところ等、人情味溢れる高座だった。

ゲストの高橋英樹さんは、2月10日に79歳の誕生日を迎えたというが、背筋はシャンとして実に若々しい話っぷりで、楽しいトークだった。亡くなった吉右衛門丈、現役トップの仁左衛門丈と同い年。日活のニューフェイスの時代、助監督に「言葉をきちんと身に付けるためには浪曲を聞きなさい」と言われたとか。子どもの頃に真空管でラジオを製作し、聞こえてくる広沢虎造を聴いていたから、日本の伝統芸能として浪曲は身近にあったという。

懇意にしてくれた三波春夫先生に「君の桃太郎侍は地味だな。もっと派手にやりなさい」と言われ、衣裳は勿論、演出や台詞廻しなど全てを派手にしたら、大ヒットにつながったそうだ。

ニューフェイスの中では「脚が短い」と言われ、「(脚が隠れる)着物を着させよう」ということになり、日本舞踊を習うことに。17歳で弟子入りしたのが、二代目尾上松緑丈のところ。一日中歌舞伎座で芝居を観て、終わると松緑丈のお宅に伺い、2~3時間晩酌をしながら芸談を聞いた。それが今の肥やしになっていると。それは息子の辰之助さん(当代四代目松緑丈のお父さん)も経験できなかったことで、羨ましがられたそうだ。

高橋英樹さんの人生の恩人は3人いるそうだ。この松緑丈と、浪花千栄子さん、浅丘ルリ子さん。浪花さんは、「伊豆の踊子」(1963年)で吉永小百合さんと共演したときの母親役で、何かにつけ役者人生の節目節目でお叱りを受けて反省をした。また、浅丘さんは英樹さんがデビューしたとき、お姉さん役だったことから始まって、これまた役者として慢心しているときにお叱りを受けたと。

私の財産は、褒めてくれる人より、叱ってくれる人だったという言葉がとても印象的だった。

「双葉山」東家三可子・沢村まみ/「国定忠治旅日記 山形屋」玉川奈々福・広沢美舟/対談 高田文夫×玉川奈々福/中入り/「彼と小猿七之助」玉川奈々福・広沢美舟

奈々福先生の一席目、勧善懲悪。今の時代にそぐわないかもしれないが、と前置きがあったが、どっこい現代人にも通用する義理と人情の世界を思う。借金の返済のために長岡の百姓男は山形屋に娘を身売りしたが…。その身代金50両を裏から手を回して奪い取る悪党の山形屋主人は許せない。

それを忠治が乗り込んで、山形屋主人を震いあがらせ、50両を奪い返しただけでなく、娘も元の鞘に収めて、長岡までの二丁の駕籠代金まで払わせる。なんてカッコイイのだろう。強きを挫き、弱きを助ける。正義の味方は令和の時代にいてほしいと思う。

二席目、川口松太郎原作を奈々福先生が浪曲化。講釈師・桃川燕林の芸に惚れこんだ金杉館という寄席の一人娘おみちの心意気に感服する。師匠の悟道軒圓玉に間に入ってもらい、金杉館主人を説得するも、時代は講談から活動写真の時代へと移り行き、国清彦兵衛の力を借りて立て直さなければいけない。

おみちは自ら国清の元に出向き、1年間の年季と期限を切って「妾になる」ことを承諾する。やがて弱々しい燕林よりも国清の気っ風の良さに心も傾くが…。「私は燕林に惚れたのではない。燕林の芸に惚れたのだ」というおみちの思いが実を結び、1年後には素晴らしい講釈を聴かせてくれる男に成長していたことに感激した。

ゲストの高田文夫先生はあらゆる芸能に精通していて、相変わらず面白い。「今どき、国定忠治かい?」と言いながらも、ちゃんと調べてきて、「国定忠治が40歳で死んだ翌年に、エドガー・アラン・ポーが同じ40歳で死んでいるんだよ」。

山田風太郎の「臨終図鑑」にそれが載っていて、「俺は74歳だから、74歳で死んだ人を調べたら、徳川家康に蜀山人に久保田万太郎!」。久保田万太郎は浪曲嫌いで、同じく浪曲が嫌いだった文人に、夏目漱石、永井荷風、泉鏡花がいたという。

奈々福先生は高田先生のことを「現代の正岡容だと思っている」と。日大芸術学部の後輩で、高田先生を慕う門弟として爆笑問題の太田光、立川志らく、春風亭一之輔、宮藤官九郎らがいる。確かに。

子どもの頃、ラジオから流れてくるのは、三代目金馬「居酒屋」か、広沢虎造の「清水次郎長伝」だったと言って、「居酒屋」の小僧の「できますものは、汁、柱、鱈昆布、アンコウのようなもの、鰤にお芋に酢蛸でございます。へーぃ」を淀みなく二度繰り返した。

このフレーズから森田芳光監督の「の・ようなもの」が出来たと。森田監督は日大芸術学部落研の後輩。主人公を演じる伊藤克信が森田監督で、その先輩役の尾藤イサオは高田先生がモデルになっているという。

この映画は1981年の作品だが、80年~90年代は落語が暗黒の時代だった。何とかしようと、高田先生は「らくご・イン・六本木」等仕掛けたがなかなかブームにはならず、円丈、小朝~志の輔、昇太、高田先生で繋いでいた。そこに宮藤官九郎が「先生、ジャニーズと組み合わせてみました」と、「タイガー&ドラゴン」を作って、落語はブームになったと。

最後に、奈々福先生の三味線で高田先生が浪曲をうなった。なんと、「清水次郎長伝 石松代参」の触りを!これが素晴らしかった。「俺は器用だから、何でもできちゃうんだよな」と照れながらおっしゃっていたが、お世辞でなく、本格的な浪花節だった。

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