演劇「宝飾時計」、そして真一文字の会

根本宗子の脚本に泣いた。高畑充希の演技に泣いた。というより、二人の表現によって僕に伝えられたメッセージに泣いてしまったのだ。こんなにお芝居を観て泣いたのは久しぶりのことだ。

東京芸術劇場プレイハウスで「宝飾時計」を観ました。作・演出が根本宗子、主演が高畑充希。この芝居は根本による高畑への当て書きである。プログラムで根本さんがこう書いている。

私は当て書きをするタイプの作家で、今回、充希ちゃんに演じてもらうゆりかも30代に入った女優さんという設定ですが、それは何も彼女が女優として歩んできた人生と重ねて書いたわけではなくて。描きたいモチーフを一番強く表現できる土台となる設定が今回は女優の人生だった。なので、設定の当て書きではなく、彼女を通して世の中に送る戯曲という意味の当て書きです。

そうなのだ。「彼女(高畑充希)を通して世の中に送る戯曲」に僕は感涙したのだ。再びプログラムから、STORYの抜粋。

10歳から29歳まで、奇跡の子役として、ミュージカル「宝飾時計」の主役を演じてきた松谷ゆりか(高畑充希)は、30歳となった現在も女優として活躍している。当時はなぜだか背が伸びず、精神年齢も妙なところで止まっているものの、1年前にマネージャー・大小路祐太郎(成田凌)が現れ、今は恋人となった彼と将来を考えていた。(中略)

実は子役時代、ある重大な事件が発生していた。それは彼女の相手役・勇大(小日向星一)が、突然、姿を消したことだ。彼はこの世を去ったのだと皆がその死を受け入れる中、唯一、心を通わせていたゆりかは、どこかで生きているはずだと頑に信じる。

幼少期、自分にとって特別な存在であった勇大と、現在の恋人であり将来を考えている相手である大小路、二人の間でゆりかの頭の中はいつも過去と現在を行き来していた。自分のために生きるのか、愛する人のために生きるのか、ゆりかの選ぶこれからの人生とは…。

僕が泣いたのは、ゆりかと大小路の会話のやりとりだ。同じ価値観を持っている者同士が愛し合うことが幸せに違いないと思うのだが、それをいちいち確認することが良いのか。それとも、言葉には出さずに思い合うのが良いのか。僕は後者の方だと思っていて、阿吽の呼吸とか、言葉を介さなくても想いが通じる関係が素晴らしいと思うのだ。そのことがゆりかと大小路の関係に見えた気がしたのだった。

根本さんがプログラムに書いている文章で、この演劇の素晴らしさを表したい。

最近、分かりやすい、もっと言うと説明過多の作品が増えているじゃないですか。だけど今回は、お客様の想像力や演劇リテラシーも問われるような、解釈の幅の広さみたいなものを持って作りたいんです。突っ込もうと思えばいくらでも突っ込める細かい部分も演劇の力によって気にならなくなってくる、そんな演劇作品を。

夜は国立演芸場に移動し、真一文字の会~春風亭一之輔勉強会~に行きました。「四人癖」「癇癪」「藪入り」の三席。「四人癖」は今後、一之輔カラーにどんどん染まった寄席ネタに成長していく可能性を感じた。

「癇癪」はパワハラとかDVとか五月蠅い世の中で、古典芸能として生き残る道筋が見えているような高座だった。会社社長の亭主の怒鳴りぶり、威張りぶり、イライラぶりをデフォルメすることによって、むしろ滑稽にしている。この亭主、恐いと感じるよりも、何怒鳴り散らかしているのよ、この人?みたいに客観的に見ることができるのではないか、と。

それと静子夫人が里に帰ったときの、父親の諭しは良いですね。使うは、使われるだと。普段従業員を何十人、何百人も抱えている社長という地位は、一番偉いようで、一番気を遣う職務なのかもしれない。それを慮ってみなさい、と。煙くとも後に寝やすき蚊遣りかな。自分で全て抱えるんじゃない。書生や女中に家事を分担すれば、造作ないことだよ、と。そう諭す父親の優しさが沁みる。

「薮入り」は大好きな噺だ。親の子を思う愛情がたっぷりと描かれている。子煩悩な一之輔師匠そのものにも見える。

藪入り前夜、3年ぶりに帰って来る亀吉のことを思い、興奮して眠れない父親が可愛いではないか。とてもじゃないけど食べきれないご馳走を並べて、とても一日では廻れない土地を連れて歩きたいと願う、子ども可愛さ。「奉公先では自分の好きなものを食べることなんかできないんだ」と、自分の経験を基に女房に語る父親がとても素敵だ。

それと、いざ息子が帰って来たら、真っ直ぐ見つめることもできず、下を向いてしまう父親の何と可愛いことよ。自分の小遣いで買ってきたという佃煮を息子から渡されて、もうそれは最上級のプレゼントであり、神棚に上げて、後で近所の御供物として配ろうなんて言い出すところ、よほど嬉しかったんだろうと思う。

「奉公っていうのはありがたいなあ」と、子どもが確実に大人として立派に育っていることに感謝した父親のつぶやきに、よっぽど現在の学校教育よりも昔の方が良かったのではないか、と思ってしまう。一般社会における礼儀とか、組織の中での立ち居振る舞いとか、世の中の仕組みとか、色々なことを奉公は教えてくれていたのだなあ。小学校、中学校で一律に義務教育として教わるよりも為になったのではないか。そんなことに想いを馳せた。