志の輔らくご IN PARCO

志の輔らくご IN PARCOに行きました。パルコでしかできない演出で落語を演じるのが、この正月恒例の公演であった。それが、PARCOの建て替えとか、「大河への道」の映画化とか、コロナ禍とかがあって有耶無耶になっていた感じがあって、去年の久しぶりの公演も「ガラガラ」「はんどたおる」「大河への道」というお馴染みの落語でお茶を濁されたような不満が残った思いが個人的にはあったのだが、今年は違った。

まず一席目が「まさか」。この公演のために創作してネタ卸ししたと思われる。サッカーのワールドカップで、日本がドイツとスペインという強豪国に「まさか」の勝利をした感動をマクラに振って、日本語の持つ言葉の多面性の面白さを形にしたような新作で、志の輔らくごの素晴らしさを見せてくれた。それは、「ハナコ」の“あらかじめ”や、「バールのようなもの」の“ような”と同類にあるユーモアだ。

まさかお宅の息子さんが結婚するとは…。お祝いの意味をこめて言ったつもりでも、相手にとっては「うちの息子が生涯、結婚できない男」と思っていたのか!とネガティブな意味を持ってしまうというわけだ。日本、スペインにまさかの勝利!とは意味合いが違うわけだ。世の中には「良いまさか」と「悪いまさか」があるのだ。

サゲを言って志の輔師匠が頭を下げて高座を降りた後、スクリーンに映し出されたのは、PARCOから歩いて数分のところにある「間坂(まさか)」という名前の坂への道のりの映像。人生には登り坂と下り坂がありますよね。今年も皆さんに沢山の「素敵なまさか」がありますように!と字幕が出た。洒落た演出だ。

二席目は「狂言長屋」。僕の記録を辿ると、2009年の志の輔らくご IN PARCOで上演されている。実に13年ぶり。この創作落語の肝は、落語の間に挟まって、狂言が演じられることだ。劇中劇ならぬ、落語中劇!?大蔵流の狂言師の茂山千五郎さんと、なんちゃって(?)狂言師の立川志の輔が狂言を演じる。

“諸行無常”とは何か、という殿様が出したテーマに答える狂言を作らなくてはいけない狂言師が主人公の落語の中で、これぞ諸行無常ではないか?という答を導き出す演出としての落語中劇である。単純に変わった趣向にしたいから、という理由ではなく、しっかりと落語の中の要素として「必要なもの」として狂言があるのが素晴らしい。

主人をしくじった男と、女房にやりこめられた男。この二人が「川に身投げして死ぬしかない」と考え、同じ行動を取ろうとして出会う。二人は「死ぬ順番」を巡って争い、それを相撲を取って決めようとする。だが、そんなことをしているうちに、死ぬのがお互いに馬鹿らしくなって仲直りする。そして、諸行無常とは生きることなり、という結論に達する。見事だ。

中入りを挟んで、大ネタ「百年目」。旦那が番頭に全幅の信頼を置いていることが何より素晴らしい。この男が番頭になったとき、主人は2つのことを決めた。1つは自分は店に顔を出さないこと。店の仕切り、つまりは店で働く人間の管理はすべて番頭に任せるという意味合いだ。もう1つは番頭が毎晩持ってくる帳面を見ないこと。財政面の管理はすべて番頭に任せるということ。これはなかなかできないことだ。僕が社会人として30年、組織で働いてきて、そういう了見で信頼を置いてくれた上司は本当に少なかった。

あと、もう一つ、すごい主人だなぁと思うのは、商売上のお付き合いでお金を使う場合は、相手より余分に支払って遊びなさい、という教え。これもなかなか言える台詞じゃない。僕の判断でこれくらい必要だと思う経費をどれだけ削るかに心を砕く上司しかいなかった。それだけ信用されていなかったということだが。

それが、向島で花見に行った際に、番頭が旦那に隠れて遊興に耽っている姿を目撃して、少しその信頼が揺らいだ。初めて帳面を見た。だが、穴が一つも空いていない。番頭は自分の甲斐性で遊んでいたんだと判る。あぁ、番頭には申し訳ないことをした。少しでも疑ってしまった自分を恥ずかしく思った。

そして、今改めてこの番頭を信頼し、来年には店を出してあげようと思う。栴檀が南縁草に露を降ろし、その南縁草が栴檀になることを全面的にバックアップしようというのだ。

あぁ、栴檀と南縁草の関係はかくありたい。上司と部下との関係もこれに同じなのだと強く思う。