神田伯山「天明白浪伝」連続読み(参)
「神田伯山 新春連続読み 天明白浪伝」千穐楽に行きました。第十話まで読み終えて、大団円。この四日間、睡眠を十分摂り、体調万全で臨んだので、ストーリーがクリアに頭に入って、連続読みの醍醐味を味わうことができた。義賊たちの一挙手一投足に、ワクワク、ドキドキしながら、講談の魅力を堪能した四日間と言えるかもしれない。この充足感は堪らない。
伯山先生が言っていたように、大団円であるはずの第十話が意外なほど、肩透かしというか、尻切れトンボになっているのが玉に傷なのだが、それを補う意味もあって、第十話に続いて「文化白浪伝 鋳掛松」を読んで締めたのは、観客の気持ちを慮った伯山先生の好判断だったと思う。さすが、である。
第八話「八百蔵吉五郎」。盗人の物語の中では珍しいラブストーリーである。両国広小路の水茶屋の看板娘お花と、呉服問屋の若旦那・吉之助実は大泥棒の八百蔵吉五郎の恋愛モノだ。チャッ、チャッ、チャ。若旦那の雪駄の後金(あとがね)の音を聞いて、胸が高鳴るお花の恋心にキュンとなる。
父親も認めた仲となり、若旦那のお陰で暮らしも裕福となり、身なりも木綿から絹物になる。そこに生まれるのは、やはり周囲の嫉妬だ。近所の婆さん連中の噂話から、番所に出入りしている糊屋のババアが八百蔵吉五郎の人相書とそっくりだと気づき、同心に通報したために、“若旦那”との相思相愛も危険に晒される。
だが、お花の発言に痺れる。「たとえ盗人でも、私は吉之助さんを愛している」と。父親もそんなお花の気持ちを察し、吉五郎にお花を連れて逃げるように言う。あぁ、なんという美しい形だろう。若い男女が逃げていく後ろ姿が目に浮かんだ。
第九話「岐阜の間違い」。この話でも、神道徳次郎と稲葉小僧新助の義賊ぶりが発揮されて、盗人のカッコよさが際立っている。茶店の爺さんが博奕で負けて作った5両の借金の取り立てに来た大垣の勝五郎は、返済できないなら、娘のおみつを酌婦として引き取ると迫る。そこを5両払ってやって救済したのが徳次郎と稲葉小僧だ。
どうやら勝五郎は表向きは同心という顔を持ちながら、裏ではイカサマ博奕などの悪事を働く悪党であると知り、2人は勝五郎の家に忍び込み、250両を脅し取る。そして、勝五郎の差配で茶屋の爺さんとおみつが牢に入れられたと知ると、牢の近くの居酒屋に地雷火を仕掛け、燃える牢から爺さんとおみつを救出し、居酒屋夫婦に50両、茶屋親子に200両を渡し、去って行く。これぞ、義賊!という徳次郎と稲葉小僧の仕事に痺れた。
第十話「大詰め勢揃い」。神道徳次郎とその一味は、大坂、そして長崎へと逃げ込むが、手配書が長崎まで回っていて万事休す、という話。勢揃いした盗人連中が丸山遊郭で大立ち廻り、という場面だが、ここまでに登場していない人物も沢山いて、特にこの第十話で一番活躍する鼠和尚なる人物が一体何者なのか、わからず。また、中心人物の神道徳次郎も「召し捕られた」の一言で処理されているので、前述したように尻切れトンボなのが残念だ。
伯山先生は、いずれはこの天明白浪伝も、20話くらいの連続物にしたいと意気込みを語っていたので、いつの日か、その連続読みを聴ける日がくるのを楽しみしたい。まだ、ずーっと先になるだろうけれど。
文化白浪伝から「鋳掛松」。松吉こと松五郎の賢すぎて怖ろしいというエピソードがすごい。父親の松右衛門は鋳掛屋なんて貧乏な商売を継がせるよりも、立派な商人になってほしいと、松五郎を呉服屋に奉公に出した。だが、お遣いの途中で泥棒に襲われたとき、咄嗟の機転で泥棒を騙し、難を逃れた顛末を番頭に話すと、主人は「この子は賢すぎる」と、5両を父親に渡して引き取ってくれと言う。知恵が働くというのは、こういう子のことを言うのであろうが、個人的に思うのは、主人や番頭が上手く教育すれば店の興隆に繋がるであろうにということだ。番頭は保身に走ったのかもしれない。
そして、父親が亡くなり、松五郎が成人して鋳掛屋として一本立ちした頃の両国橋の場面が実に印象的だ。川では屋形船に乗った商人が金に糸目もつけず、芸者幇間をあげて遊興に耽っている。一方、橋の上では枝豆売りの母が草鞋も買えずに足が熱いと泣く子を宥めている。富裕と貧困の両極端を目にした松五郎のやるせなさよ。同じ人間なのに・・・、と怒りにも似た思いを持ち、鋳掛の道具を川にぶちまけてしまう。そして、松五郎は義賊への道を歩むのだった…。
一所懸命に働く者が必ずしも報われない世の中。それならば、盗人にでもなって弱きを助け、強きを挫こう。天明の時代が終わっても、次の文化年間にも又同じことが繰り返される世情に思いを馳せた。そして、令和という時代にも似た思いをしている人たちがいるのではないかと思う。